『ワイン知らず、マンガ知らず』を読んで、働き方の脱成長モデルを考える

はじめに

世界には我々日本人のまだ知らない、また日々新しく出版され続けているにも関わらず、諸事情で日本での翻訳出版されない名著が山のように存在している。
サウザンブックスはそういった一般的な出版マーケットに乗りにくい世界の名著を発掘し、クラウドファンディングで支援者を募って刊行するという事業スタイルを採用しています。

そのサウザンブックスの漫画部門、サウザンコミックスで発起されるクラウドファンディングには私も毎回参加していて、
私のフランスを中心にした海外漫画コレクションを拡充して本棚をぎゅうぎゅうにしているのです。

そんなサウザンコミックスの第3弾プロジェクトはバンド・デシネ(フランス漫画)の『ワイン知らずマンガ知らず』でした。

フランスのバンド・デシネ作家で作者のエティエンヌとワイン生産者のリシャールという、職業的に何の接点もなさそうな二人が一年間をともに過ごし、お互いの仕事を子細に紹介し合い、体験してゆくというお話。

漫画のジャンル的にはドキュメンタリーで、土作りから始まるワインの生産方法をつぶさに学ぶという読み方もできるし、日本とは大きく異なるフランスの漫画出版事情を知るという読み方もできる。

あるいは異業種交流を通じて見えてくる仕事の本質というものを、読者自身の事情に置き換えて再確認することもできるかもしれない。

ただ思ったこと、経験したことを飾らず正直にそのまま描き上げられているため、作者が用意した結論を見抜いてほしいという意図もない。
読者自身のとらえ方、楽しみ方ができる作品になっています。

うわべだけのていのよさで語るべきではないと察す

本書が届いて封を開けたとき、「わ、想像以上に大きい」とまず思いました。
B5判の大判で300ページ近い体裁のため、漫画とはいえかなりの内容量になっています。
「これは丸一日何もしない日でないと読み切れないな」と、意識的に仕事も何の作業もしない日を用意して読書に充てることにしました。

ワイン生産者のリシャールは「ビオ・ディナミ農法」という有機農法を実践する人で、作者のエティエンヌは一年を通してその作業を手伝い、経験したからこそでしか描けない子細な絵でその様子を伝えてくれる。
ストイックで誠実な農作業が季節の折々で行われているさまを追体験することができました。

漫画についてほとんど何も知らないリシャールには、エティエンヌがバンド・デシネの課題図書を用意したり、作家仲間との交流に連れ立たせ、リシャールの歯に衣を着せぬ感想に喜んでいたりする。
バンド・デシネファンにはおなじみの作家の面々が名を連ね、ときに作家自身が生きた人間として作中に登場する。
「ああこんな人が描いているんだ」と作品とはまた違った作者の顔を見られることが新鮮な驚きでした。

私はまったくアルコールがダメな体質なのでワインを一口も楽しめた経験がないながら、「なんて美味しそうなワインだろう。お酒が飲めたら人生もっと楽しいんだろうな」とうっとり夢想する。
強制的に作った休日に、エコでロハスな有機農法ワイン作りの話を読んで、異国の漫画家事情を垣間見て隣の芝の青さを羨ましく思いながら、ゆったりまったり読書を楽しんでいました。

エコでロハスでサステナブルでお洒落なフレンチワインに、洗練され知的なバンド・デシネ作家たち。
うーん、ステキだ。なんて言ったってフランスだもの、トレビアン、トレビアン。

ところがあるページに到達した瞬間、そんな腑抜けたうわべだけのていのよさで本書を語るべきではないと察し、
そこから発生してめぐらせた思考をどういう言葉に落とし込もうかと数か月考えきりになるのでした。

「成長を拒否しようぜ」

それはエティエンヌとリシャールがバンド・デシネ作家マルク=アントワーヌ・マチューのアトリエを訪ねたときのこと。

マルク=アントワーヌは漫画家としての仕事以外に、「リュシー・ロム」という空間デザインのアトリエに共同参画しているらしい。

「リュシー・ロム」のスタッフはわずか3人。
「規模を大きくするこおもできたんだけど、イヤな仕事を断れるように小さいままでいたいんだ」というマルク=アントワーヌの言葉にワイン生産者のリシャールも大いに賛同する。

「小さいままでいるというのは、自分の仕事の質を完全に把握できるということなんだ。成長を拒否しようぜ」と激励するリシャールの言葉に、私ははたとページをめくる手を止める。

「成長を拒否しようぜ」

これが、私がここしばらく思案しつづけてきたことへのひとつの回答を指し示す、鮮明な色をした旗のように思えたのです。

ここしばらくずっと、漠然とした不安がある。

未来を悲観的に考えてしまいがちになる。疲れ切って憔悴していく自分の未来が見える気がする。そういう類の漠然とした不安。

誰のせいとも誰が悪いというわけでなく、強いて言うなら「このままではいけない」という気持ちはあるのに、世の中のスピードがあまりに早すぎて大したことも成せていない自分の情けなさのせいかもしれない。

でも何が大したことなのか?
何ができたら自分は安心を得られるのか?

そもそもワイン作りのための農業と漫画家の話なのに、なぜこんな風に不安の原因を探すことに思考を向けてしまうのか。

「成長」というものへの世間や私自身の認識が、もはや時代にそぐわなくなってしまっているのに、古い成長神話にとり憑かれているせいで自分で自分の首を絞めているのではないか。

リシャールの言葉は、じっくりと私の思考をそんな思考に導いていきました。

そもそも「成長」ってなんだろう

「成長」することは素晴らしい。

ビジネスにおいては、事業を拡大し、雇う人を増やし更なる利潤を上げて資本を増やし、常に加速しつづけることを目指すべし。

漫画などのクリエイター業においては、作品が売れ、作家としての名を上げ、尊敬され、作品が商業ラインに乗って更なる売り上げを獲得することを「成長」としよう。
売れない作家はダメな作家で売れない作品に価値はない。作家はそのことを恥じねばならない。

少なくとも資本主義社会においては、およそこういった認識が人々に通底しています。

成長が善であり、減速・停滞・衰退は忌避するべき悪だという成長神話が、人々を強制的に競争に駆り立て延々と走り続けなければ惨めな人生になると脅迫しているようでさえあります。

成長神話のおかげで人類は進歩的に新しい技術を獲得してきたけれど、一方でその技術には自然からの収奪を促進させる側面もありました。

農業の分野ではより多くの合理的な生産のために、化学肥料の使用や薬品による除草を肯定して土壌環境を荒らしてしまう。見た目の美しい野菜の方がより高く売れるので、農薬漬けにして防虫したところで売れた後は知ったことではない。何より利益獲得のほうが大事なのだから。

そうした利益優先の生産活動の結果、自然環境の荒廃が後戻りできない状況になってきた近年、ようやく成長神話への疑問視が叫ばれはじめています。

リシャールが実践する「ビオ・ディナミ農法」は肥料造りから瓶詰めに至るまですべての工程を自分で行う徹底した有機農法で、化学肥料も除草剤も一切使わないストイックさ。
自然を大切にし、土を育むその姿勢から、大量生産・大量消費を是とするアメリカや南米の安価なワインの農法ときっぱり距離を置いていることがわかります。

なぜアメリカ式の大規模農場が自然を荒廃させるのか、その環境負荷のメカニズムや大規模農場が孕む危険性を知るには『100億人-私たちは何を食べるのか?』というドキュメンタリー映画をおススメします。

本書の本筋から離れてしまうため、同列に引用できないながら、やはり捨て置きがたい良質なドキュメンタリー映画だったのでここに少し紹介しておきます。

化学肥料や薬品をふんだんに使い、生産性の向上を至上命題にするアメリカ式の大規模農場がなぜ今問題視されているのか。

それは、自然の回復速度を上回るスピードで自然を収奪しているからにほかならず、同時に先進国の外側で飢餓を誘っているからです。

人間が生きるために必要なはずの食糧が、輸出品として他の工業製品と同じように市場に乗せられてしまっている。

それでは相場の変動によって食糧を手にすることすらできなくなる人々が簡単に出現してしまう。新型のiPhoneが円安で買えないどころではない深刻な危機が、我々の生活の外側にあることを教えてくれます。

世界中の人間の胃袋を養おうとする大規模農場は一見合理的で効率が良いように見えるけれど、円の大きさが大きくなればなるほど外周の境界(=食糧にありつけない人々)を増やすことになってしまう。

地産地消活動に代表されるように、食糧生産は小さな円に回帰すべきだと訴えています。

また大量の化学肥料に頼りっぱなしの生産体制も飢餓を誘うと言われています。リンやカリウムが採掘され商品として輸出されている現状で、その資源が枯渇した先の見通しが何もない。

食糧生産に必要な化学肥料を輸入に頼りきりなのも大変な問題で、昨今のロシアーウクライナ戦争で肥料の輸入が滞り、来年以降の日本国内での食糧生産が危惧されています。

このドキュメンタリー映画で警鐘を鳴らされていることと全く同じ危機がすぐそこに迫っている。

Amazon Primeで観ることができるので、無料で観られるうちの視聴をおススメします。

我が家ではこのドキュメンタリー映画を観てからというもの、来るべき食糧危機に備えて庭には食べられるものしか植えない「エディブル・ガーデン計画」を推進しています。ただいま2年目を経過中。

リシャールには事業の拡大や商品の増産という野心がなく、今以上に儲けたい、楽をしたいという気持ちもない。
毎年毎年同じように骨を折りながら、その年の自然環境に呼応して適したブドウを育てていく。
生産量は定常型で、彼はそれでも満足できるのは誠実な仕事ができているという、自身の内面から生じる揺るぎない自己肯定感のおかげでしょう。

お金のために嫌々働くのではなく、自己実現のための労働ができているゆえの充足と幸福感のように思えました。

「成長を拒否しようぜ」と堂々と言えるほどに自身の仕事が確立できているリシャールが、とても眩く感じました。

クリエイター業における「成長の拒否」ってなんだろう

「成長を拒否しようぜ」

これをクリエイターが字面通りに受け取って技術の鍛錬や作品の質の向上をおろそかにしてはいけません。

あくまでここで言う「成長」とは、事業の拡大や利潤の増大という経済活動上の成長の概念であって、
作家としての成長、作品の質の向上を意味しているわけではないことは重々ご承知いただきたい。

その上で、クリエイター業における「成長の拒否」ってなんだろうと考えると、大変な大問題であることに私はずっと頭を抱え続けてきました。

大量生産・高利潤を追求する経済活動から距離を置きたいと願っても、そもそもエンタメの金銭的価値はインターネットのおかげで限りなくゼロに近づいている。

レンタルビデオ屋がまだ繁盛していた頃は、映画1本観るのだって数百円はかかった。
それがAmazon PrimeやらNetflixやら、Prime ReadingやらSpotifyやら、サブスクサービスのおかげで一生かかっても鑑賞できない膨大な量のコンテンツが安価な定額で提供されていて、作品1本あたりの金額はほとんどタダみたいなものだ。
それでいて日々続々と新しいコンテンツが生産されており、人々の可処分時間を奪い合っている。

エンタメの収益構造はもはや「薄利多売」で、作品の売り上げはいかにバズって人々の注目を浴びられるかにかかっている。
それでも世間の注視はものすごいスピードで流れてゆくので作品の寿命はますます短くなる一方だ。


私のような弱小クリエイターは、こんな消耗戦にとても参戦する気にはなれず、外野で日々粛々と趣味としてのWeb漫画を描いたり泡沫仕事をしているにすぎないのですが、
クリエイター業を本職とするフリーランサーたちにとっては時勢はますます厳しくなる一方だということを肌で感じています。

やりたくない仕事も生活のために仕方なくやったり、報酬が下がってもゼロになるよりはマシだと嫌々仕事を受けざるを得ない場合もあるでしょう。

マルク=アントワーヌ・マチューの「リュシー・ロム」のように、イヤな仕事を断れるレベルだったらいいのだけれど、
そもそも生活が立ち行かないレベルで苦しかったら仕事を選り好みできるはずがない。
そういったフリーランサーの苦境を感じられるので、疲れ切って憔悴していく自分を想像して未来に悲観的になってしまう。

それでもクソな仕事はやらなくていい

斎藤幸平氏の『人新世の資本論』によると、現代の労働者は生産性を上げようとしてむしろ無意味な仕事ばかりやってしまいがちで、結果的に自然資源を浪費し、労働者自身もすり減ってしまっている。

まったく耳が痛いのですが、無意味に終わることが十中八九予想されても、身を削ってやってしまう仕事があるのは私にも身に覚えのある話。

うすうすクソだとわかっていてもやってしまう仕事が、自分にとって有益な結果に終わった経験があるかというと、残念ながらこれもない。はじめからクソだと予感された仕事は最後までクソなのだという諦めと線引きを、そろそろ自分の中にも設けるべきなのでしょう。

経済学者の間には、「価値」「使用価値」という概念があります。

似たような字面なのでややこしいのですが、ここでいう「価値」とは、「利潤を生む商品としての価値」であり、価値が高いとはより多くの金銭的利潤を生むもののことを指します。

一方で「使用価値」とは、「そのものを使用したときの有益性や品質」のことを指します。

資本主義社会において、企業の命題は利潤の最大化であり、そのためにいかに「価値を高めるか」に注力されることが多い。

利潤が高ければ(価値が高ければ)あとはどうだっていいと言わんばかりに、無謀なコストカットや後先顧みない自然の収奪が横行している。大量生産・大量廃棄も利潤を追求した結果であるし、労働者を安くこき使うのだって、経営側にとってはそれが利潤の最大化だからです。

そうした利潤の追求から人々の安全が切り離され、保障されているかというとまったくそんなことはなく、私たちも知らないうちに安全が無駄としてコストカットされているのかもしれない。

新型コロナウイルスのパンデミックの初期段階で問題視されたのは、先進国の各社製薬会社がより利潤を生みやすい(価値が高い)EDや抗精神薬の生産ばかりに注力していて、いざ有事になったときに本当に必要だった(使用価値の高かった)消毒液やマスク、人工呼吸器を利潤が薄いものとして国外の生産に頼っていた点でした。

結果としてパンデミックの初期にはマスクが足りない、消毒薬が足りないと大混乱に陥り、それらに法外な値段をふっかけ人命を天秤にかけるような惨事便乗型商売が横行していた。

『人新世の資本論』では、これから先は「使用価値」に重きを置く労働と生産活動に移行してゆくべきだと再三訴えられていました。

資本主義型経済によって破壊されてきた自然環境は、もはや見て見ぬふりをできない地点に達している。自然環境が後戻りできない地点に達するまえに、私たちは労働・生産活動を時代に即したものに変えてゆかねばならない。

そのために重要になるのが、「使用価値」に重きを置いた価値観だという。

それが人々にとって本当に有益なものなのか、質の高いものなのか。それが生産活動の第一指針になるのなら、無謀な自然の収奪や、むやみたらに「成長」を目指すこともなくなる。

それこそリシャールが実践する「ビオ・ディナミ農法」なのだと『人新世の資本論』の読書中にしきりに思い返されていました。

「使用価値」に重きを置いた価値観を優先すると、クリエイター業だってクソな仕事はやらなくていいという思い切りの勇気が湧いてくる。自分の仕事の質の維持を最優先に考えて自衛するべきだと励まされる。

リシャールは有機農法によって土壌を育んでいたけれど、クリエイターにとっての土壌とは自分の心そのもので、土壌の健康は心の健康に置き換えて考えられる。心が痩せると、そこから生まれるものの形は歪んで味は落ちるのは当然のこと。

クソな仕事とは距離を置き、むやみやたらに「成長」を目指さなくなると、できた時間と余裕がきっと疲れた心を癒すはず。少なくとも、クソでイヤな仕事をしている癖に暇がなく、働けど働けど苦しいという惨めさはゆるむはず。同じ苦しいなら、クソでイヤな仕事は引き受けておらず時間的にはゆとりがある、という状況の方がまだマシです。

それでいて生活してゆくためだったら、今の時代はクリエイター専業を目指さず兼業の可能性を探ることも、前向きな前進であると私は考えています。

実はバンド・デシネ作家には兼業作家が多い。

日本の商業ベースの漫画出版事情では考えにくいことですが、フランスのバンド・デシネ作家は数年に一冊レベルのゆっくりした刊行ペースで(人によるのですが)、その間は教師や会社員といった別の職業をかけ持ちしている人が多い。

これは何も専業作家で食べられないからという後向きな理由に限らず、作品の質を維持するための前向きな選択なのではないかと思われ、それを知ったときには実に励まされる気持ちになったものでした。

「成長を拒否しようぜ」を目指そうぜ

地球ヤバくない? とここ十数年、夏の灼熱地獄を迎えるたびに思う。

そしてとんでもないドカ雪が降る冬には「地球温暖化なんて嘘だったんだ」と夏の灼熱地獄を忘れて訝ってしまう。そうして夏になればまた… 以下繰り返し。

気候変動の実感はほぼすべての人が持ち合わせているもので、それが資本主義型の経済活動のせいなのか、大いなる地球の気候サイクルのひとつに過ぎないのかはまだ結論が出ていないところですが、それでも人間の経済活動が自然を不自然に変え、資源を乱獲して環境の回復する猶予さえ与えていないことは素直に認めるべきでしょう。

そうして昨今、環境の回復を目標に掲げた運動が世界中のあちこちで展開されており、労働と生産活動の在り方を転換する局面に差し掛かっていると感じています。

「成長を拒否しようぜ」の脱成長モデルの働き方は、成長神話に取って代わる、この先の人々の意識に通底するものになるかもしれず、『ワイン知らず、マンガ知らず』は21世紀のこの先の未来の働き方を予言する作品なのかもしれないと私は思うのでした。

「成長を拒否しようぜ」と堂々と発言できるほどの自身の仕事の確立が私にはできておらず、それで自己実現が叶っているわけでもない。願わくば私もそうなりたい。

『「成長を拒否しようぜ」を目指そうぜ』、が私のここ数か月に渡る思考のひとつの到達点になった気がしました。

そのためには何をしようか、何をやめようか。

成長神話に苦しめられる時代になった今、潔く切り落としていくものと、迎え入れるものの選別から始めることになりそうです。



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