『HATSHEPST Episode 7-3 153ページ』に描いた「生物の基本形は女である」というセリフ、これは私の大好きな分子生物学者の福岡伸一先生の『できそこないの男たち』という著書によります。
古今東西の神話をざっと俯瞰して比較してみても、およそ共通している点がいくつかある。
男性神がはじめに生まれ、それに続いて女性神が生まれるという生命のはじまりの順序はそのひとつです。
これは男尊女卑的な人間の文化的側面から神話もそのように形成されていったのだと想像できますが、しかし人類の歴史の中でなぜ男尊女卑の社会システムが構築されていったのかは未だ不明らしい。(『サピエンス全史』のユヴァル・ノア・ハラリ曰く)
「男性神がはじめ」という神話は人間の想像力が創り出したものに外ならず、生物学的な観点から見れば、生命の起源は女であり、その基本形もまた女である。
そんな旧約聖書の記述の改定に挑むような、センセーショナルな学会の光景から始まるのが福岡慎一先生の『できそこないの男たち』です。
生物学的な男女の性差を様々な切り口から論じ、いかに男性は生物学的に弱いのかを解説した一冊です。タイトルで誤解されがちですが、決してジェンダー論的な内容ではございませんのでそういったものが読みたい方はご注意を。
謎の詩
『できそこないの男たち』には、福岡慎一先生の著書の中でも珍しく文学的な詩が丸ごと一本引用して掲載されています。
大変美しく記憶に残る印象的な作品だったため、ここに引用します。
わたしたちおんなはむすめをうむ だれのちからもかりずに むすめはせいちょうし うつくしいおんなになる わたしにそっくりの このようにしてわたしたちおんなはいのちをつむいでいた ずっとずっと ながいあいだ このようにしてわたしたちおんなはへいおんにすごしてきた ずっとずっと ながいあいだ あるあさ うみべで ララとナナはあそんでいた ララは海の色も空の色もおよばないまっすぐな青 ナナは花の色も蝶の色もおよばないあざやかな黄金色 ララは かたわらのナナのからだをこっそり見ていた 流れるような髪 深いひとみ 磨かれたレンズのような頬 たわわな果実のような重く豊かな胸 ジガバチのような腰 胸と競い合うように張り出した腰 人魚の下半身のように伸びた脚 ふと ララは思った わたしの青とナナの黄金色がまざるとどんな色になるの それはいままで誰もかんがえたことのなかったことだった ララはひとりになると そっと自分のあばら骨の一部を抜き取り そのあとを肉でふさいだ あばら骨はほんらいララの娘のもとになる部分だった ララは娘のもとから茎を引き出し 割れ目を縫い合わせた そのようにしてララはキラルを造り上げた キラルは はじめは死んでいるようにじっとしていた やがてキラルはその細い手足を震わせるようにうごかしはじめた 耳をすませるとキラルのか細い呼吸が聞こえた ララはキラルを大事に育てた キラルはありあわせのものからいそいで造られたため 小さく 華奢で 脆かった それでもキラルはすこしづつ成長した ある日 ララは キラルをナナのところへ行かせた ナナはキラルを誰もいない場所に導きそっと身体を重ねた キラルが運んだものはそう ララの青色のたねだった こうしてナナはむすめキキを生んだ キキはこれまで誰も見たことがない色をしていた ララの青とナナの黄金色がまざってできたすばらしい色 誰もがキキをうらやんだ ララはキラルの作り方をみんなにおしえた ありとあらゆる素敵な色がうまれた そんなある日 空から燃える石が降り注いだ 火は大地を焼き尽くした そのあと空気が冷え始めた 続く何年もの間 太陽は姿を隠し 海は凍りついた 原色のものが消え やがてララもナナもいなくなった キキたちの世代は新しい色と寒さに耐える身体を手に入れることができた かわりに キラルの手を借りないと子どもをつくることができなくなった 色どりが増えた分 世の中が複雑になった キラルたちはせっせとそれぞれのママの色を別の娘のもとに運びつづけた 色を運び色を混ぜること それがキラルのできるただひとつの仕事だったから 仕事が終わるとキラルは荒地に捨てられた もともとキラルは小さく華奢で脆かった どのみちそんなに長くは生きられなかった 太陽がもどり 空気は暖かくなり始めた 大地には花が咲き 海は穏やかな波をとりもどした このようにしてわたしたちおんなはいのちをつむいできた ずっとずっと ながいあいだ このようにしてわたしたちおんなはへいおんにすごしてきた ずっとずっと ながいあいだ おそらくわたしたちはすこし油断していたのだろう あるいは平和ゆえに慢心しすぎたのかもしれない 最初は気がつかなかったが 徐々にキラルの数が増えはじめた なぜならすべての女が 色を運んできたキラルをそのまま住まいにとどめ 次々と色以外のものを運ばせはじめたから はじめは薪を ついで食糧を しまいには慰撫までを運ばせた キラルには知恵があった 薪も 食糧も そして慰撫までも 余分につくりだすことができた キラルはそれをこっそり隠しておいた このようにしてキラルは 自らのフェノタイプを 限られた遺伝子の外側へと延長する方法を知ったのだった (原詩 Chiral and the chirality,by Iris Otto Feigns)
女が、ほかの女の性に関心を寄せ、互いに交わりたいという欲求がほのかにうずくのが伝わってくるような官能的な詩です。
キラルとはもちろん男の隠喩あり、母系の遺伝子を別の女に運ぶために男が造られたのだ、という生命の雄大な進化の歴史を美しい比喩の文学として表現しています。
そしてまた、女の欲がキラルを増やし、女の優位性を脅かす存在になったのだということも。
人類史の謎である、男尊女卑社会の形成にも示唆するような詩です。
詩の作者 Iris Otto Feigns って?
こんな美しい詩を書いた作者 “Iris Otto Feigns” とはどんな人だろうと気になって検索したことがありました。
しかしまったく情報がない。有名な海外の作家というわけではないのでしょうか?
博学な福岡先生のことだから、未邦訳の作家の著作だって何だって知っていてもおかしくない。
ところがわずかに検索に拾われる情報をたどっていくと、福岡先生自身の詩作ではないかという指摘がありました。
“Iris Otto Feigns” とは一見ドイツ風の人名のように思えますが、「オットーのふりをしたイリス」という意味で、人名にしてはいささか奇妙。
福岡先生自身が書いたと聞いてむしろそのほうがしっくりくるのでした。福岡ファンとしては。
タイトルの ”Chiral and the chirality” って?
福岡先生がこの詩を書いたのだとすると、『キラルとキラリティー “Chiral and the chirality”』というタイトルにも合点がいきます。
「キラル」とは化学用語でいう「光学異性体(鏡像異性体)」を有するもののことであり、有名な例えが右手と左手の関係です。
右手と左手は、掌を上に向けたままの状態で互いにぴったり重なりあうことはできない。
右手と左手は、まるで鏡に映したような鏡像の関係であり、実像と鏡像と重ね合わすことができない性質のことを「キラリティー」と呼びます。
身の回りのキラルの例では、「文字が書かれたもの」「時計」「鎌」「野球グローブ」など。
だいたい左利きの人が使いにくいと言われる道具はキラルであることが多い。(鏡文字が実像の文字と重ならないのはイメージしやすいですね)
ちなみにキラルの逆、実像と鏡像を重ね合わせられる性質のものを「アキラル」と呼びます。
「アキラル」は線対称な形状のものなので、こちらのほうがよりわかりやすいでしょう。例えば「ボール」「(取っ手のない)コップ」、その他左右対称なものなら何でも。
男と女のキラリティー
男女の起源を謳うこの詩のタイトルが『キラルとキラリティー “Chiral and the chirality”』なのは、男と女はキラルの関係にあるのだという暗示ではないのでしょうか。
似て非なる形、男と女。雌雄はキラルである。
サイエンティフィックな概念を文学的に昇華させているところが、福岡先生自身がこの詩を書いたのだと言われても「さもありなん」と返せる所以です。
アキラルに還元するアンドロギュノス
プラトンの『饗宴』によると、太古の昔、男女は一つの球体だった。それが完全体としての人間の姿だった。
しかし神にも歯向かう傲慢さから神の怒りを買い、肉体を真っ二つにされ、それから人は自分の片割れを探すようになったという。
運命の片割れと結ばれることによって完全体へと戻ることができる。それが愛である。 こんな愛への自説を語ったのが詩人アリストファネスでした。
ちなみに男女混合の球体をアンドロギュノスと呼ぶだけで、男男、女女の球体もある。いずれも半身にされて片割れを探す。
男と女は「キラル」の関係にあるという空想に遊んだとき、必然的に『饗宴』のアンドロギュノスのことも連想され、球体のアンドロギュノスに戻ることとは「アキラル」に還元されるのではないかと私は考えるのでした。
似て非なる形「キラル」から、完全な線対称の「アキラル」に戻ること。それが人間の完全体であると考えていた古代ギリシア人の、自然界の観察と分析の精緻さや想像力の逞しさに改めて驚かされます。
ふたつの卵
Episode 7-3 に入って、いよいよアイシュガルド先生が遺したアンドロギュノス構想の真相に迫ってきていますが、私が155ページで「ふたつの卵をかけあわせるようなイメージ」と描いたのは、先の福岡先生による「謎の詩」からインスピレーションを受けたものです。
ふたり分の肉体が一つに同居しているアンドロギュノス(ややこしいですが、ここでは拙作の中の概念としてのアンドロギュノス)において、将来の受精が約束されているのなら、男性分の遺伝情報を運ぶ生殖細胞は精子の姿をしていなくてもいいはずだ。
精子は膨大な犠牲を強いられる仕組みの中にある。鞭毛を生やして必死に泳ぎ、遥かな子宮に到達する。それまでに何億もの同胞が淘汰され、勝ち残ったたったひとりが受精の栄誉にあやかれる。
男と女の肉体が別個であるがゆえに、そうした大量の淘汰ありきの生殖のシステムに我々人間は置かれているのですが、雌雄同体のアンドロギュノスであれば、精子は競争を勝ち抜くための姿をしていなくてもいいはずなのだ。もっと穏やかに大事にされる、卵のような姿をしていていいはず。とまぁ、私はそう考えたのです。
いやもちろん、こんな世迷言は「現段階でそれが可能かどうかは問うまい」でお願いします。あくまで漫画の中のお話なだけです(笑)
最近私生活でいろいろやらねばならない仕事を抱えていて、なかなか漫画制作のスピードが上がりませんが、いよいよ過去編の核に入っていく段階になってきたので描くのが楽しみではあります。
上手に時間を作りつつテンポよく更新していきます。
福岡伸一先生の著書は、人に賞賛されにくい日陰の仕事をする者たちに慰めと励ましを与えてくれるものだと常々思っています。この本は特に強く励まされた記憶があり、その一節を紹介します。
ネッティ・マリア・スティーブンズという女性研究者が20世紀初頭のアメリカにいました。
男性の性決定因子、Y染色体を発見した人です。
彼女がいた時代、女性の社会的地位は芳しくなく、
研究という男社会において、一層女性研究者の足場は心許ないものだったのでしょう。
彼女はチャイロコメノゴミムシダマシという少々情けない名前の虫を研究対象にしてせっせと解剖観察する日々に明け暮れていました。
なぜその虫かというと、彼女の乏しい研究費で賄えるのがそれくらいしかなかったから。
彼女はチャイロコメノゴミムシダマシの精子の中には、10個の染色体を持つものと、9個+より小さい1個を持つものと2種類あることに気がつく。
これが、その当時まだ性決定について解明されていなかった謎を解き明かす鍵になると信じ、
彼女は気の遠くなるような観察資料の作成のための仕事を延々とこなし続けた。
やがて”9個+より小さい1個”の染色体のうち、小さい1個が男性を決定づけるY染色体であると結論づける。
そうしてネッティは一つの論文を書き上げたのですが、
それに対する福岡先生の温かい、頼もしい賞賛に胸を打たれたので一部原文ままのまま紹介します。
『精子形成についての研究 —付随染色体に注目して—』
こう題された論文は30ページ。ネッティの単著である。わずかな成果が出るとそのたびに短い論文を書き、そこに関係者全員の名前をずらずらと連ねて、質より量を稼ごうとする今日の学界の習俗から見るとたいへんな大論文だ。
福岡伸一『できそこないの男たち』より
目立ったもの勝ちな風潮をさらりと批判しつつ日陰の偉人を賞賛する姿勢に、とても励まされる気持ちになりました。
陽の当たらない状況にいても、コツコツと仕事を続けた彼女の誠意、偉大な大発見に至るまで諦めなかった信念の強さ、地道な努力が導くもの、そういう萎みがちな大切なことを福岡先生は読者に伝えたいのだろうと感じました。
目立ったもの勝ちと言わんばかりに声の大きい存在に惑わされる、もしくは押し殺した憤懣を感じている人は、研究の世界でなくても、どんな業界でもいらっしゃるように思います。
競争の原理からいうと、目立たなければ損です。それは間違いありません。
ビジネスの場においては特にそう。けれど目立つことに仕事の質が付随しているかというと、それはまた別の話で。
結局のところ、本物の評価を得るには目先の評判を得るためにアレコレ画策するのではなく、地道に真摯に自分の仕事をこなしていくしかありません。それではあまりに非効率に思えるかもしれませんが、目先の評判を気にする者に長く先まで通用する信用が得られるかというと疑問です。
本当に価値のある仕事を真摯に続けた人は、それを見極められる目を持った人がやがて必ず見つけてくれる。福岡先生がこうしてネッティの偉業を紹介してくれたように、時間がかかるかもしれないけれど、あなたの仕事を本物の目を持つ人がやがて見つけてくれる。私はそう希望を抱きました。
「そんな希望は現実逃避だ。今評価されていないなら希望など毒だ、捨ててしまえ」
そんな声も聞こえるような気がするけれど、物事の価値を今現在の値でしか見ない刹那的な評価軸では長い時間を必要とした先にあるものは決して得られません。
目標に向かって頑張っている、自分の今の仕事はきっと価値があるものと信じている。でも見つけてもらえない、苦しい、つらい。そう感じている多くの方の、励ましの一冊になればいいなと願います。