私が高校一年生の頃、世界史の担当教員不足が起こり、 私のクラスは一年間にわたって非常勤の先生が短期で教えに来られたり、 日本史の先生が代わりに授業をしたりということがありました。 (よく考えたら私立校だったのにええのか?)
高校一年生の世界史というと、古代文明から順を追って授業が進んでいく。 ユダヤ人の王国の話になったとき、私はかねてから持っていた疑問を先生に投げかけました。
なぜユダヤ人は迫害されたのか、ということでした。
なぜユダヤ人は嫌われ者だったのだろう。 どうしてヒトラーは彼らを憎んでホロコーストに至ったのだろう。 史実としてそういう事実があったのは知っていましたが、その根幹の理由がよく理解できていませんでした。
長く国を持たない流浪の民族であることも表面上は知っていたけれど、 流浪の民族が、自分はユダヤ人であるといつまでも自覚し続けられるものなの? 戸籍も、それを管理する政府もなければ、やがて流浪先の土地の民族と融合して 自分はユダヤ人であることなんて忘れてしまうんちゃいますの?
とその時の代理だった日本史の先生に質問したけれど、 いまいち納得のいく答えを得られませんでした。(先生ごめんね)
これが本来の世界史の先生だったなら的確に答えてくれたんでしょうか。
今であればYahoo知恵袋くらいに投稿すれば親切な誰かが答えてくれるでしょうが、 その当時そんな手段はなく、私の疑問が解決されるにはまだしばらくかかりました。
色々本を読んで自分なりに納得したその理由とは、 すなわち宗教的確執が歴史を作ってきたのだということでした。
ユダヤ人は長い歴史を持つ民族でかつ、苦難の多い人々でもありました。
始祖アブラハムから現在のパレスチナ近辺で集落を構えて暮らし始めたものの、 紀元前17世紀頃におそらく環境的な問題でエジプトに移住せざるを得なくなる。
エジプトに移ったら移ったで、王国の脅威になる可能性のある異民族として嫌われ、奴隷としてこき使われました。
やがてモーセが登場し、ユダヤ人たちは導かれて集団でエジプトを脱出する。
再びパレスチナ近辺に戻り、ダヴィデ王、ソロモン王の登場を経て、ユダヤ人の王国は最盛期を迎える。 しかし偉大なソロモン王の死後、王国は南北に分断し、 北のイスラエル王国はアッシリアに滅ぼされ(紀元前721年)、南のユダ王国も新バビロニア王国に敗れる。 紀元前587年にあった、有名なバビロンの捕囚でユダ王国の人々はバビロンに奴隷として捕らわれ、完全に国を失ってしまう。
新バビロニア王国をアケメネス朝ペルシアが滅ぼした後、解放されたユダヤ人たちは故郷に戻るけれど、 ペルシアに支配され、宗主国が代替わりしていき、最終的に古代ローマ帝国の属州となり下がる。
紀元66年年頃にローマ帝国への反乱を起こすけれど、鎮圧され、自治権まで失い民族は激しく弾圧される。
このような歴史の流れの中で、ユダヤ人たちはヨーロッパや中近東に離散していくことになります。
けれど民族は離散したのに自分たちはユダヤ人だということは決して忘れなかった。 それはなぜか。
宗教による結束がとても強かったからでしょう。
ユダヤ教は選民思想の宗教だともよく言われますが、 自分たちは神と契約した選ばれた民族であるという前提から、神への堅い忠誠、信仰心を誓っている。
私が勝手に疑問に思っていた民族を忘れることなんてとんでもない、ということなのですね。
強い信仰によって結束された民族は、排他的でもあり、放浪していながら決してその土地の人間たちと交わることはなかった。
一方で、他民族にとってもユダヤ人は非友好的なよそ者でしかなかった。
中世のヨーロッパにおいてはユダヤ人たちは、封建制度の外側にいたため、 土地を借りて農業を営むこともできず、 商工業ギルドに加入して職人として生きることもできなかった。
また、キリスト教徒においては、ユダヤ人はイエス・キリストを処刑に至らしめた責任のある民族だとみなしていたので 宗教的な意味でも、ヨーロッパ諸国においてユダヤ人は忌み嫌われ、迫害されました。
ユダヤ教では現在でもイエスを救世主とは認めていないので、キリスト教徒にとってはその点も相容れがたいものだったのでしょう。
まっとうな職業から締め出されたユダヤ人たちが、 代わりに生業として始めざるを得なかったのが先に述べた通り金融業ということです。
金融業は忌まわしい職業ではあったけれど、大変儲かった。
またユダヤ人は頭の良い民族だなんて言われるけれど、恐らく迫害から身を守る手段を模索する知恵が発達し受け継がれていったのだと思います。 銀行、証券、保険、為替 等の金融システムの原型はすべてユダヤ人が始めたものらしい。
そして彼らの頭の良さは、そのまま財をますます大きくしていって、 ヨーロッパの中で、決して他と交わることはないけれど巨額の富を得ている脅威の民族として認識されていくようになった。
第一次大戦の敗戦によって、貧しさにあえぐドイツの中で、 いろいろ拗らせたヒトラーが、人間の貧富の格差、不幸の元凶と目の敵にしたのがユダヤ人であったというわけです。
ゲルマン民族のナショナリズムが異常に高揚してユダヤ民族のホロコーストにまで至った歴史の実証を見ていると、 行き過ぎたナショナリズムは過ちしか生まない。 かといって、自国の歴史に自虐的になりすぎても良くない。
日本だけではなく、世界各国で奇妙なナショナリズムの活動の起伏が報道されている今、 うーん、歴史がまた徐々に軌道を変えようとしているのかなという気になってきます。
そして大きな流れとして歴史を俯瞰してみると、 その根底には人間の信仰心が深くかかわっているのだとよくわかります。
世界史を教えるにあたって、世界各国の宗教というものがどんなものなのか、 そのあらまし、それぞれの信仰への尊厳を守る大切さ、 そういうことから教えていくべきなんだろうなと思います。
今の教育の現場がどういう指導なのかわかりませんが、 少なくとも私が高校生の頃は、世界の宗教というのは「倫理」という社会科の一科目扱いでさらっと扱われただけでした。
「倫理」 センター試験でもこれを受験する人って少なそう。 私の身の回りでは国立大理系を選択する子が最低限の労力で取れる社会科科目だと言って選択していた記憶しかありません。
カントとか、ヘーゲルとか、習った気がするけど、とにかく影の薄い科目。
そういう軽視されがちな科目で扱われた宗教。
でも本当は、人々と突き動かし、歴史のうねりを生むその信仰心について、 歴史科目でまず初めに扱うべきなんじゃないかなと思うのです。
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Date: 2017/04/01(土)
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