漫画の中では福音書の物語の簡単なあらましをジョン・カリストに喋ってもらっている最中ですが、 せっかくなのでそれぞれにちょっと解説を補足しておこうと思います。
ヘロデ・アンティパスはヘロデ大王の息子で、ガリラヤとペレアを支配する「四分封領主」でした。
ヘロデ大王の死後、ユダヤ人の土地がローマ帝国の完全な属州になったのは 大王とは違い、その息子たちには統治の難しいパレスチナを治める能力なしとローマ帝国が判断したためでしょう。
その息子の一人、ヘロデ・アンティパスも、 文献を読んでいても小物でしかない印象です。
イエスの裁判のときも、判断に困ったローマ総督ピラトが、 イエスはガリラヤの出身なのだから、 ガリラヤ領主のヘロデ・アンティパスがその処罰を判断すべきだと彼の下へイエスを送りますが、 ヘロデも自分では処罰を決定せずに、イエスを罵ってピラトに送り返すだけでした。 (この記述はルカ伝による)
このとき、道化のような派手な衣装をイエスに着せて辱めたと言われていますが、 その参考になるような絵画作品を見つけることができませんでした…
高校生の頃、たぶんイタリアの壁画で着飾ってからかわれているイエスの絵を見た記憶があるのですが、 その画家の名前もどこの国の絵画なのか、またどの本で見たものなのかも定かでなく、 小一時間かけてネット上で探してみても思い出せなかったのです。
画家にはあまり魅力のある題材ではなかったのでしょうね。 そもそもヘロデ・アンティパスがイエスを辱めるシーンの絵はあまり描かれていないようです。
ヘロデ・アンティパスはイエスとの関係よりも、 洗礼者ヨハネとの物語の方が画家にとっても遥かに魅力的だったのでしょう。
洗礼者ヨハネとサロメを巡る物語の絵画はたくさん残されています。
洗礼者ヨハネとは、荒野で暮らす隠者でヨルダン川のほとりで人々に洗礼を与えていました。 ルカ伝ではイエスとヨハネは従兄弟同士だったと書かれているほど、 イエスとの強い繋がりを示したかった重要な人物です。
救世主の到来を人々に予言し、イエスに洗礼を授けた人でした。
さて同じ頃、ヘロデ・アンティパスは異母兄弟のヘロデ・フィリッポスの妻へロディアに恋をし、 自身にも妻がいたにも関わらず、両者離婚して再婚するという事態をしでかします。
これがユダヤ教の教えにおいて大変な罪で(日本人でも顰蹙ものですね) 洗礼者ヨハネは姦淫の罪だとヘロデ・アンティパスを批判します。
これに怒ったヘロデ・アンティパスは、洗礼者ヨハネを捕らえて投獄するものの、 高名な聖者であった彼を処刑する度胸もなくダラダラ時を過ごしていました。 (このあたりも小物)
煮え切らない夫に腹を立てた悪妻へロディアは、 自分の娘を利用して洗礼者ヨハネを殺すことにします。
ヘロデ・アンティパスの誕生の祝宴の席で、 へロディアの娘サロメは見事な舞を踊る。
気をよくしたヘロデは、義理の娘に褒美を授けるのでほしいものを言うようにと告げます。
するとサロメは、洗礼者ヨハネの首を盆に載せてほしいという。
仰天したヘロデ・アンティパスでしたが、言ったにひけず、やむなくヨハネの処刑を命じて サロメにその首を与えました。
クラナッハのこの絵に代表されるように、 ヨハネとサロメの物語は、悪趣味よろしく美しい生首を描く画家の腕自慢のために好まれて描かれたように思います。 (似た題材で美女ユディットのテーマもあります)
http://www.wikiart.org/en/lucas-cranach-the-elder/salome - Salomé avec la tête de Saint Jean-Baptiste, Lucas Cranach, 1530.
この猟奇的でドラマチックな物語は、19世紀末には更に脚色されて一層人気を得ます。
私はフランスのギュスターヴ・モローが大好きだと大昔からこの日記にも書いていたのですが、 彼の有名作『出現』は、そんな脚色されたサロメ像の先駆けでした。
http://en.wikipedia.org/wiki/L%27Apparition - The Apparition, Gustave Moreau, 1876.
舞を踊るサロメの指さすところにヨハネの首が浮かび上がる。 これは実際に首が浮かんでいるのではなく、サロメがそういう幻視を見ているのです。
なぜ幻視を見るのか? サロメとヨハネは見知った関係だったのか? 福音書には両者の関係性を示すことは一切書かれておらず、ただ少女は母の言に従い、ヨハネの首をもらっただけのはず。
このセンセーショナルなサロメの絵は瞬く間に画壇の人気を得て、 モローも複数のバリエーションの絵を描いたほか、他の画家たちもこぞってサロメを描き出しました。
サロメという少女に新しい切り口からスポットが当たったことで、 イギリスのオスカー・ワイルドは1893年に戯曲『サロメ』という問題作を書きました。
サロメは洗礼者ヨハネに恋をして、自ら男に迫るものの(これも当時のイギリスの倫理観からすると顰蹙) すげなくヨハネに拒絶される。
愛しさあまって憎さ100倍、サロメはヨハネを殺したいと思う。 そして舞を披露し、義父にヨハネの首を自らねだるのです。
そうして授かった首に口づけをして、「ようやくお前を手に入れた」と言う。
この戯曲は聖書の人物を描くのに不適切な内容だと物議を醸して何度も上演中止になったりしたそうです。 一方でここまで大胆な脚色を聖書の人物に加えられるということは、 人々から権威への畏れが薄れつつあった時代であったことも示しています。
19世紀末を代表するような退廃的な作品です。
私がこのワイルドの『サロメ』が好きなのは、 同じく好きな画家オーブリー・ビアズリーが挿絵を描いているからです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Aubrey_Beardsley
当時の印刷技術の限界を逆手に取った、白と黒だけのシンプルな色遣い。 (中間カラーのグレーは安い大量印刷では出しにくかったのです) 線と面の繊細ながらダイナミックな構図がとても魅力的。
日本語訳では岩波文庫から出されている翻訳が、ビアズリーの挿絵も収録されていておススメです。
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ヘロデ・アンティパスの解説から始まって、ちょっと脱線して長くなってしまいました。
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Date: 2018/06/06(水)
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