【 MY NOTE 】

MY NOTE:つれづれと綴るもの。


受難  2018/06/23(土)
ポンテオ・ピラト  2018/06/18(月)
疎外される人々  2018/06/17(日)
イエスと女たち  2018/06/15(金)
聖マタイの召命  2018/06/14(木)


受難

イエスの逮捕から裁判、処刑に至るまでの一連の流れを "受難" と呼びます。

もともとはイエスの身体的、精神的苦痛を示した神学用語だったそうです。


偶像崇拝を禁止するユダヤ教、イスラム教とは違って、
キリスト教会は伝道のために積極的に絵画や彫刻等でイエスの物語や信仰の教義を表現することを推奨しました。
読み書きのできない庶民にとって、視覚的な芸術は物語を知る明解な手助けになったのです。

中でも受難伝は特にイエスの物語において重要な要素だったため、
歴史上、数々の芸術家がその腕をふるってきた画題でした。


受難伝の絵画というと、無数にあるので例を選ぶのも難しいのですが、
イタリアのドゥッチョ・ディ・ブオニンセーニャ(1260年頃 - 1319年頃)の作品が最も有名でしょうか。

日本語版のwikiがなかったのですが、このページが一番詳しかったのでリンクを貼っておきます。

http://goo.gl/7pDcTd


さて受難伝の中でも、十字架を背負わされ、ゴルゴダの丘まで見せしめのため歩かされるイエスの姿は
物語のクライマックスとして最も象徴的で、
連作でなくこのシーンだけ切り取って描く画家も多くいました。

中でも私の中で一番強烈なのは、ヒエロニムス・ボスの作品です。

http://goo.gl/iy5DZ9


よくぞここまで醜悪な人間が描けるなぁ、と感心するのです。


ボスという画家は、よっぽど人間嫌いだったのだろうか。

いや人嫌いはむしろ、創作物の中に人間の理想の美を描いて現実の嫌悪から逃避していそうで、
案外こういう絵を描くのは、人好きのする愉快なオッサンだったのかもしれない。

ボスという画家は殆ど生前の人柄を知る資料が残っていない謎多き人物です。


突然変異のように歴史の中で現れた鬼才で、
サイケデリックな作風から、異端的な思想を持っていた人物ではないかという見方もありますが、
厳格なカトリック信者であったスペインのフェリペ2世が彼の絵をたくさん蒐集していたので
ボスの異端説はまぁ現代人から見た勝手な期待論かなとは思います。

こちらで高画質の絵が見られるので
是非ボスワールドに遊びに行ってみてください。

http://www.artrenewal.org/Artist/Index/344
Date: 2018/06/23(土)


ポンテオ・ピラト

ポンテオ・ピラトという第5代ローマ総督は実在の人物ですが、生没年不詳のためイエスの裁判のとき何歳であったかわかりません。

映画等では比較的若い人で描かれることが多いですが、
私は分別のある老賢人をイメージしています。

私はピラトが好きなので、カッコいいおじ様として描いてみました。



ピラトという人物がどんな性格の人だったのか、
伝承やローマ帝国の記録、福音書の中で様々な表現がされているので一概にこれ、とキャラクター性を提示できない人物です。


ローマの記録から推測するに、ユダヤ人嫌いの残虐な性格であったらしい。

福音書のルカ伝にも、過越祭の生贄として、ガリラヤ人の血を混ぜた、という特異な一文がちらりと混じっていて、
大人しく良心的な性格の人物として書かれているルカ伝にこんな伝承が紛れているとは、
実のところ本当に残酷な人物だったのかもしれない。


しかし福音書の中では概して彼は、イエスを擁護して死刑から救おうとした人物として書かれています。

これは、合理的な歴史的観点から見ると
福音書そのものが異教徒への伝道を目的として編纂された書物のため、
ローマ人であるピラトをちょっと良い人として描き、下駄を履かせていた可能性が高いのです。


福音書の中の人物像と、史実とでは異なる点は大小あると考えます。
(これは私が信徒ではないので口に出せることなのですが)


また、福音書のマタイ伝だけは、他の福音書とちょっと違うピラトの一面が見え隠れします。

マタイ伝27章24節にこうあります。

27:24
ピラトは、それ以上言っても無駄なばかりか、かえって騒動が起こりそうなのを見て、水を持って来させ、群衆の前で手を洗って言った。
「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ。」


群衆の前で手を洗うピラト。
これはイエスの審判に自分は関与していないという潔白性を示すジェスチャーで、
ここから感じ取れるのはピラトという人物のずるさです。


果たしてピラトは残虐な人物だったのか、
イエスを救おうとしたけれどかなわなかった非力な人だったのか、
あるいはずるい薄情な男だったのか。


絵画に描かれる際、画家はピラトにどういう性格を投影していたのか観察すると楽しいです。


例えば、私がピラトの絵として真っ先に思い浮かぶのは
ティントレットの絵です。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/9/90/Jacopo_Tintoretto_-_Christ_before_Pilate_-_WGA22514.jpg
Jacopo Tintoretto - Christ before Pilate, 1566 - 1567


このピラトはイエスから目をそらし、手を洗っている。
ずるい老人のような印象です。


ヒエロニムス・ボスの作品では、赤い三角の帽子を被った人物がピラトです。
http://boschproject.org/#/artworks/Ecce_Homo_Stadel_Museum
Jheronimus Bosch - Ecce Homo, 1577

ボス特有のなんとも凶悪そうな顔をしている。

(ちなみに画面中にいくつか金文字で単文が描き込まれてありますが、
これはこの時代にフランドル地方の絵画でよく見られた手法です。
漫画のセリフのようなものです)



アントニオ・シセリの作品になると、時代も近代になって使い古された表現から脱却して
斬新な構図を取っています。

http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/d/de/Ecce_homo_by_Antonio_Ciseri_%281%29.jpg
Antonio Ciseri - Ecce Homo, 1860


ピラトの顔は見えず、後ろ向きに下を覗き込んでいる姿だけ。

しかし、"Ecce Homo !" と大きく訴えている声が聞こえてきそうですね。

イエスがあまり傷つけられておらず、血を殆ど流していないところからも、
この画家がピラトに清廉潔白な良心を投影していたように感じます。



Date: 2018/06/18(月)


疎外される人々

イエスは人々が恐れるような病人にも臆せず接し、その体を清めたというお話があります。

この病人とは、現代の口語訳聖書では"重い皮膚病"と書かれてありますが、
ギリシア語の原語ではレプラとあり、その言葉にはハンセン病も含まれていたと思われます。

現代の聖書で翻訳が改められた経緯はこのページに、とてもやさしい言葉で説明されてありますので
是非読んでみてください。
http://www2.plala.or.jp/Arakawa/christ_srm27.htm


ハンセン病の原因である癩菌は感染力もとても弱く、
通常の衛生状態にある中では成人への感染を心配する必要もありません。

20世紀半ばには治療技術も確立し、今では無暗に恐れる必要はない病となりました。


けれど、見た目に病変が出てくる症状から、古くから人々に大変恐れられ、
ハンセン病を発症した人間はコミュニティから放逐され、迫害され続けた歴史があります。


中世の欧州では特に不浄なものと忌み嫌われ、
病人は鈴やガラガラと音の出る木の板を持つことを強要され、
町を通り過ぎるときはその音で自分の存在を周囲に知らせなければなりませんでした。
(画像2枚目)


患者の出す音を聞いた住民たちはさっと家に入り、戸を閉ざして病人が通り過ぎるのを待ったのです。

(英文ですが、参考までに…)
http://www.medievalists.net/2017/09/roots-persecution-comparison-leprosy-madness-late-medieval-thought-society/


私はこの話を初めて知ったとき、胸の詰まる思いをしました。




特に見た目に影響が出てくる病は、医学的な知識もなにもない時代の人々から見れば
恐怖であるほかなく、
そんな病にかかってしまう人間は罪の現れなのだと考えられていました。
悪い行いの報いとしてかかる業病と呼ばれたのです。


15世紀中頃にフランドル地方で活躍したヒエロニムス・ボスの絵には
サイケデリックなモンスターがたくさん登場し、今でも人気が高いのでご存知の方も多いでしょう。

ボスは美術史上でも突然変異のような鬼才です。

http://www.artrenewal.org/Artist/Index/344

そのボスのモンスターたちにも目を凝らしてよく見ると、病人を象徴化させたようなものたちが登場しています。

例えば『最後の審判』にあるこの大きなお腹のモンスターは、
いちご病とも呼ばれた梅毒の患者がモチーフになっていると考えられます。
(画像3枚目)


モンスターと同列に考え、融合させられるほど、当時の人々にとっては病は悪業の現れであり、
病人は避けなければならない存在だったのです。



日本でもハンセン病患者に対する迫害は厳しく、差別の歴史はつい最近まで、あるいは今でも続いています。

宮崎駿監督の『もののけ姫』にハンセン病の患者が描かれたことは有名ですが、
宮崎駿監督の作品には一貫して、隔離され迫害され、蔑視される人間を通じて訴えかけているものがあるなと感じています。



『風の谷のナウシカ』の原作漫画には蟲使いという賤民が登場します。
不浄なものと人々から忌み嫌われ、腐海と一般社会を行き来する存在でした。


ナウシカも、初めこそ彼らを忌み嫌いますが、やがて行動を共にし、
彼らを仲間と認識し、彼らに協力をもらってクライマックスのシーンに突入します。

自分たちと同じだ、と蟲使いたちに体を触らせるナウシカの姿が印象的でした。


『ナウシカ』の原作には"森の人"というとても高貴な種族も登場します。
(彼らがどれくらい高貴かというと、ドロドロの汚泥を行くようなストーリーを読み進めないと分からないほどの高貴さ)

その高貴な人、美少年セルムもまた、母は蟲使いの出だという。

高貴で偉大な人は、忌避されていた賤民から生まれるのだという。



『もののけ姫』のエボシ御前も、病人を恐れず介抱し、彼らを仲間だと呼び協力を仰いだ。
彼女の美しさ、強さ、高貴さは、
ただ恵まれた出生を持っただけの人間には表現できないものです。

病人を看護し、無為に生かすだけなのではなく、
エボシ御前は彼らに技術を教え、仕事を与え、タタラ場という社会全体を生かすために働いてもらっていた。

自分の働きが誰かの役に立っているという実感は自己肯定感を養うために何よりも大切なこと。
エボシ御前は共同体の長として、外敵から憎まれ役を買いつつ、
内部の者たちに仕事を与え、人間としての尊厳を守っていたと考えています。


疎外される人々に対して、我々がどう考え接するべきか、
宮崎監督は漫画や映画という大変骨の折れる、しかし強い印象に残る方法で語り掛けていると私は感じています。


フランスの漫画家メビウスが亡くなった際の追悼コメントで、

「僕らは同じ時代に生き、同じように努力し、働き、疲れたりしました」

との哀悼を送られた宮崎監督。
(このコメントはユーロマンガという雑誌の7号に載せられています)

この 「疲れたりしました」 の一文に私はいつも深い敬意を感じます。

そして拙作を描くときにも、猛烈に疲れてしんどいとき、苦しいときにも、
この言葉を噛みしめてなんとかやっています。





宮崎監督はあえて既存の宗教とは距離を置いている印象ですが、
本質的には宮崎監督の哲学とイエスの行動は似ています。

しかし信仰は権威によって形骸化し、伝言ゲームのような伝道は、様々な誤解や迷信も生んできました。

宗教が数々の差別や迫害を産んできたのもまた事実で、
人々の認識を改め、公平で合理的な思考をもたらしたのは科学の力です。


宗教と科学という、聳え立つ難題の壁に向かって私はあれこれブツ切りの考え事をしています。



Date: 2018/06/17(日)


イエスと女たち

私の大好きな中野京子先生はやはり女性の作家さんなので
イエス伝を書くにしても、他の男性作家より多くページを割いてイエスがいた当時の女性の状況を解説されています。


今よりも遥かに人権意識が乏しい時代、生まれながらに虐げられていたのは女性だったといいます。

中野先生曰く、特に寡婦が悲惨だったそうで、
女性が自立して生計を立てる手段もない時代に、働き手の男を失った女たちは
他の親族の厄介になるほかない。

ただでさえ貧しく食べるものにも困窮しているのに、更に養わねばならない女が増えるとは…

寡婦になった女たちがどれだけ肩身が狭いか、
働き手の男を失うことが彼女たちにとってどれだけ絶望することか、
私たちが現代の感覚から想像するよりもずっと過酷な状況だったのでしょう。



ルカ伝7章に寡婦の女のお話があります。

イエスたち一行がナインという町を通りかかったとき、一人息子を失った寡婦の葬列に出会いました。
その寡婦は、夫に先立たれ、唯一の息子も失ったのです。
悲しみと絶望は相当なものだったでしょう。


(13節) "主はこの婦人を見て深い同情を寄せられ、「泣かないでいなさい」と言われた。"

とあり、イエスは死んだはずの息子を生き返らせる奇跡を起こしました。


この奇跡が真実か作り話かという議論はさておき、
中野先生はこの寡婦にイエスは自分の母マリアを重ねただろうと言及されていました。

母マリアもまた、夫ヨセフに先立たれ、一人息子のイエスも30歳で家を出て伝道活動を始めていた。
貧しい大工の家でしかなく、手に職のない母がどうやって暮らしていたかと想像すると、
親族の迷惑になっていたに違いないのです。

母へのすまない気持ちや哀れみがイエスの言動に顕れていると言及されていました。



社会保障がなかった時代、守られるべき弱者をいたわるようにという教えはキリスト教徒の間で脈々と受け継がれてゆきます。

特に寡婦に関しては、使徒パウロが書いたと言われている『テモテへの手紙一』の5章において、
「真のやもめ」という言葉を使ってとうとうと大事にしなさいと書かれてあります。
http://eastwindow18.hatenadiary.com/entry/2013/12/13/185613

これだけ具体的な記述があるあたり、本当に寡婦は悲惨な状況にいたんだろうなと想像します。


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さてイエス伝の中でも姦淫の女とも、罪の女とも呼ばれる、いわば売春婦に関するお話は特に有名でご存知の方も多いと思います。


あるときイエスの前に男たちが騒々しく女をひっ捕まえて連れてきた。
彼女は姦通の現場で取り押さえられた売春婦だという。

ユダヤ教の律法において、売春婦は石打ちの私刑に処すべしとある。
あなたはどうするか、と彼らはイエスに問う。

イエスは言う、 「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げつけるがよい」。

今なお語り継がれる痛快な言葉です。



安彦良和先生の『イエス』のこのシーンは、何度読んでも涙が出る、鮮やかな感動が溢れている名シーンです。


売春婦の女は、小さい子供がいるのでお許しくださいと言う。(これは安彦良和先生の創作です)

この一言だけで、ああ彼女は寡婦なんだろうな、とわかります。


夫を事故か病気で失ったのか、とにかく小さな子供を養い生きていくためにお金を稼がなければならない。

しかし学もなく、生計を立てるための職業訓練を受ける機会すら与えられない女たちが、
稼ぐためにできることなんか限られている。

そんなことは当然他の男たちだってわかっているのに、
用済みになれば気まぐれに、律法という法律を盾に女を迫害する。


イエスは、もう罪を犯さぬよう努力しなさいと女を諭し、
罪を犯してしまったことに対しては何も言わず、何も罰せず、そっと女を解放する。



何度読んでも涙が出るのです。



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話は大幅に逸れますが、
私が毎月愛読しているファッション誌、『otonaMUSE』に作家のLiLyさんという方のエッセイが連載されています。

このLiLyさん、雑誌から初めて知ったのですが、
まずもう恋愛コラムニストという肩書からして私とは別の次元の方。

同年代の人なので、多感な思春期の頃を同じ時代に過ごしたわけですが、
LiLyさんが女子高生だった頃どんな人だったかと想像すると、ありありと浮かんでくるのです、私が苦手だったタイプのギャルが。


髪を茶色く染めて巻き、えげつないほどの短いスカートにルーズソックスで、男の話ばかりするギャル。

そういうギャルたちがセブンティーンとか雑誌を買ってオシャレにいそしむ頃、
私はファミ通を買って、ゲームの攻略にいそしみ、読者投稿にニヤニヤしていたのです。


髪を染めたこともなく (校則で禁止されていたし、髪が痛むのが嫌で私はいまだに一度も染色したことがない)
ルーズソックスも頑として履かなかった。(カワイイともイケてるとも思わなかったので)

良いとも思わない流行に乗るのが絶対に嫌だった女子高生時代、
ギャルをよそ目に
私は私の道を突き進んでいた。


そうして大人になった今、
当時のギャル寄りだったであろうLiLyさんのエッセイを読むと、
あの頃苦手で避けていたギャルたちと腹を割って本音を言い合っている気分になるのです。


真面目に生きてきた私の友達は皆真面目。

でもクラブで遊びまわって奔放な生き方をしてきたギャルたちの友達は、色んな生き方をしている。


中には不倫、離婚、水商売…  真面目な女たちから見ると眉を顰めるような人たちもいます。

LiLyさん自身が、母でありつつ女でもありたいと離婚も経験されたシングルマザーです。
雑誌連載中に離婚されたため、その経緯で離れていった読者も多かったそうですが…


けれどもそういう真面目な大人社会から顰蹙を買うような女たちでも、
なるほどそういう考えをしているのね、と彼女たちの存在や行動を肯定的に捉えて書き起こしているのがLiLyさんです。

あの人不倫したし、バツイチだし、キャバ嬢だし… と人の一面しか見ないことの浅はかさを知った気分になります。



軽んじられがちな女たちも、大らかに肯定的に捉えてくれるLiLyさんだったら、
私が女としての人生を失敗しても、笑って大丈夫よー と励ましてくれるだろうなぁ、とふと思ったのです。

そう、こういうとき、
「失敗したっていーじゃーん ヘーキヘーキ」 
と笑って肩を叩いてくれるのはギャルのほうなのだ。




女には人生の各ステージで色んな顔を求められる。

学生時代はまだ楽なほうです。子供ですもの。

でも社会に出て働き、結婚し、子供を生んで母になり、齢をとって姑となり…

全ステージクリア、できるのが望ましい人生だけれど、
各ステージできゅうきゅうの点数でクリアすることになるかもしれない。

クリアできるならまだまし、そのステージで落伍するかもしれない。


落伍した女に厳しいのは、全ステージ悠々とクリアしている女たちなんですよね、実際。




私も結婚して早いもので丸7年になろうとしています。

しかしこれまでの間で結婚生活が崩壊しそう、と思ったことは数え切れません。

自由が制限された息苦しさに発狂しそうになったり、

私は結婚に向いていないのかなぁ、それなのに会社辞めてしまってねぇ、と
大好きだった会社を辞めてしまった後悔に押しつぶされそうになったり、

働いた分だけ評価が返ってくる会社員生活とは違って、
やりがいも目標も見出しにくい田舎での主婦生活です。


その中で生きる目標を作るためにせっせと漫画を描いていますが、
疲れるとやってくる "こんなの描いてて意味があるのか" という呪いのようなネガティブな客観視が自分を苦しめます。


創作は主観で見ると楽しい。
けれどふと冷静に客観的に自分を見たときに、特に未来につながりもしない無価値なものを延々描いているだけのような気がして、
そうすると私の結婚生活も、自分の選択も、
全部失敗だったような気がしてとんでもなく落ち込みます。



今日もまた、久々にそんなどんよりした気分だったので(疲れているのかな)
ペンを握りながら涙があふれて仕方がありませんでした。


全てを放り出して一人になりたい、自由になりたい、と我慢をかみしめて堪えることもしばしばで、
気分の波をなんとかたしなめて生きています。


しかし今後、その気分も決壊することもあるかもしれない。

そうすると私はそこでステージ落伍。
世間様からちょっと眉を顰められるバツイチ女の誕生です。


でもLiLyさんだったら、 「まー そういう人生もあるよー 堂々としていたらいーじゃーん ヘーキヘーキ」 と言ってくれそう。
(これはあくまで私の勝手な期待なのですが)



もしかすると、失敗するかもしれない自分を励ましてくれそうなLiLyさんの存在は、
私の普段の生活のちょっとした心の支えになっています。

使うかわからないけれど、逃げ道があった方が安心して大胆にトライできる、そういう類の心の支えです。



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イエスと虐げられた女たちの話から随分膨らんでしまいましたが、
私の頭の中で、LiLyさんの大らかさがリンクして離れなかったのです。



Date: 2018/06/15(金)


聖マタイの召命

『聖マタイの召命』という画題があります。

最も有名なのはイタリアのカラヴァッジョの作でしょう。
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/4/48/The_Calling_of_Saint_Matthew-Caravaggo_%281599-1600%29.jpg

中央にいる髭面の男が「えっ わたし?」と驚いて自分を指している。これが後に12使徒になるマタイです。

(ついでに言うと一番左側にいる若者がかなりイケメンでいつ見てもキュンとしてしまう)


マタイは徴税人という当時のユダヤ人にとっては嫌われものの職業に就いていた男でした。

なぜ徴税人が嫌われ者だったかというと、宗主国ローマに収めるための税金を人々から徴収する役目を負っていたからです。

宗主国側につく同胞を忌み嫌う感情は、占領された側の人間であれば誰しもが持つものでしょう。

かつての敗戦後の日本でも、アメリカ側の仕事に従事する日本人への蔑視や敵対心も、程度の大小はあれどあったと覚え聞きます。



ローマ帝国側も徴税人を懐柔する策に賢く、徴収した税金のうち収めるべき一定額を越えた分は
徴税人たちの懐に収めてよいとしていました。

そのため私財を増やすためにバンバン税金を取り立て、
徴税人たちだけが肥え太り、ユダヤ人は困窮する一方。

どれだけ同胞のユダヤ人から嫌われていたのか想像するに易しいですね。

徴税人は罪人や売春婦と同列に扱われるほどの賤業だったのです。



そんな嫌われ者だったマタイを、あるときイエスは呼び、一緒に食事をしようと誘います。


イエスが徴税人と同じ席で食事をしていることに
パリサイ派の宗教指導者たちが難癖をつけてきます。

しかしイエスはこう言ってその難癖をはねのけます。

「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである」。

医者に例えて、罪深い徴税人の罪を浄化するために招いたのだと言う。

マタイはそれに深く感銘を受け、徴税人の仕事も辞めてイエスに弟子入りし使徒となります。

福音書を書いた福音記者マタイと彼が、同一人物であるかは歴史学的な見解からすると微妙ですが、
使徒マタイが福音書を書いたと信じる人も多くいます。





賤業というものは、社会が自動的に作り出すもので、
どんなに社会がかき回されても、必ずまた別の新しい賤業が出てくるもの。

社会を維持するために、
誰もがやりたくない仕事を請け負ってくれている人がいることを決して疎かに考えてはいけません。

誰もが嫌がる仕事でもやってくれる人がいるおかげで社会が回っているのであって、
その人に非があるからその仕事にしか就けなかったんだと蔑むのは、むしろ浅ましい。


どんな職業の人であっても、お互いに "ありがとう" という言葉が循環する社会が素敵だなと思います。


そして他の仕事に従事する者たちも、自分の職業上のアドバンテージから悪事を働くことを戒める解釈もこのマタイのエピソードから展開できると考えます。

業務上横領のニュースは頻繁に聞きますが、
額が大きいから報道されるのであって、それに至らなくても大なり小なり横領で逮捕・懲戒解雇の事件なんて毎日毎日起きているんだろうな。


金に支配されることをイエスは病人に例えましたが、
うーん、この病は2000年経っても人間から消えてなくなりません。

Date: 2018/06/14(木)


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