【 MY NOTE 】

MY NOTE:つれづれと綴るもの。


シンボルとしての魚  2018/07/24(火)
ヘロデ大王と高等批評  2018/07/08(日)
イエス大暴れ  2018/07/01(日)
イエスと原罪  2018/06/29(金)
INRI  2018/06/25(月)


シンボルとしての魚

キリストのシンボルとしての魚の図像は2世紀頃から使われだしました。

キリスト教史の初期において、ローマ帝国の迫害から信徒が身を守るために暗号や合言葉として使っていたのです。


ローマのサン・セバスティアーノ聖堂のカタコンベにある史跡には、
魚、錨、Chi Ro(XP / キリストグラム)、という初期キリスト教美術によくあった図像のよくばりセットが残されています。

大っぴらに描けない代わりに、こうした汎用性の高い図像で信者の結束を守っていたのです。

(参考リンク)
http://www.jesuswalk.com/christian-symbols/fish.htm


また魚は旧約聖書にも度々象徴的に登場する生き物で、
水なくしては生きられないその姿は、キリスト教徒にとって洗礼の水なくして生きられぬことと同じ、
そして瞼がなく決して目を閉じないことから、神の絶えることのない恩情の目の象徴とも考えられていたとか。

(参考リンク)
http://www.math.dartmouth.edu/~matc/math5.geometry/unit9/unit9.html



キリストの象徴としての魚の図像は、比較的近年まで西洋絵画でよく使われていました。

宗教画の装飾としてちょっと魚が泳いでいたり、
あるいはダイレクトに漁の場が描かれている絵画を見かけられたときは、
イエスを隠喩しているんだなと踏まえて鑑賞していただくと面白いと思います。


ちなみに『最後の晩餐』のメインディッシュは魚か羊の肉が絵画上の定番になっています。
(ダヴィンチの絵も修復されて魚らしきものが描かれているのが確認されました)

(参考リンク)
http://commons.wikimedia.org/wiki/File:Última_Cena_-_Da_Vinci_5.jpg


「最後の晩餐で注目すべき7つのこと」
というこの記事は易しく面白く書かれてあるので興味のある方は是非。

http://blogs.getty.edu/iris/7-things-to-look-for-in-paintings-of-the-last-supper/


※参考リンクはすべて英文なのでGoogle翻訳にでもかけてください



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こちらの日記をなかなか更新できていません(原稿描くので精一杯)
一言メールフォームからメッセージくださる皆様、どうもありがとうございます。

日陰でもそもそ漫画描いている身として、
見てくださる方々の声をいただくのが一番嬉しい、励みになることです。
ありがとうございます。


さて、まだまだ頑張ってつづきを描きます。


Date: 2018/07/24(火)


ヘロデ大王と高等批評

歴史上の極悪人は誰ですか? と全世界に質問すると、ヘロデ大王がトップ100くらいにはランクインしそうだなぁ、と思ったので
私なりに凶悪そうな顔で描いてみました。


歴史上の公正な評価は見つけがたいのですが、少なくとも聖書の上においてはヘロデ大王は極悪な存在として残されています。

最も有名なエピソードは、マタイ伝2章16節〜18節にある嬰児虐殺のお話です。

新しいユダヤ人の王(つまりイエスのこと)がベツレヘムで誕生したと東方の賢者から聞かされたヘロデ大王は、
自分の地位が脅かされるものと危惧し、ベツレヘムの2歳以下の嬰児を皆殺しにするよう命令を下します。

このスペクタクルなシーンは絵画にもよく描かれる題材です。

(参考リンク)
http://mementmori-art.com/archives/25418179.html


嬰児虐殺のエピソードというと、私はイギリスの伝統歌『コヴェントリー・キャロル』を思い出します。
http://goo.gl/QGi99w

http://www.youtube.com/watch?v=uhCLwwmtKjs

この曲を初めて聴いたのは高校生の頃か、イギリスのMediaeval Baebesのアルバムからでした。

王の兵士たちが押し寄せ、問答無用で赤子を殺していく。
その恐怖から息をひそめて必死に逃げようとする女たちの姿が浮かびました。


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ヘロデ大王はエドム人という、ユダヤ人の縁戚にあるような民族の出身だったらしい。

これがエルサレム陥落後、ローマ帝国の後ろ盾を得てユダヤ人の王を名乗ったことは
当のユダヤ人たちにとっては大変な屈辱だったとのこと。

しかしこのあたりの感覚が、歴史的・信仰的・地理的にも共通点の薄い我々日本人には今一つ理解しがたいものです。


中野京子先生は、日本人がこの感覚を理解するために

"敗戦後にアメリカが中国や朝鮮あたりから適当な男を連れてきて天皇を名乗らせるようなものだ"

と表現されていて、なるほどと腑に落ちました。


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そして私は度々中野京子先生や阿刀田高先生の著書を引用して漫画にも大いに参考にさせてもらっていますが、
この先生方の著作は客観的な立場で歴史を俯瞰して書かれているからです。


中野京子先生の論述は特に明解で、
自らキリスト教の信徒ではないと前置きされておきつつ、我々日本人が聖書の物語を理解しやすくなるよう
合理的な解説を度々挟まれています。


この当時の人々がどういう気持ちでいたのか、
そしてそれがどういう感情の流れを起こして歴史を紡いでいったのか、
時代背景を参考にしながら自分たちの立場に置き換え理解を試みるのは、
決して間違ったアプローチではないと私は考えています。


しかし一方で歴史的に合理的に聖書を解釈しようという読解の試みは、
「高等批評」という古典文学の研究姿勢のひとつに含まれ、
特に熱心な信徒の人々からは拒絶されている考え方であることもお知らせしておかねばなりません。

(参考ページ)
http://thekingdomsgospel.blogspot.com/2018/01/blog-post_10.html



高等批評とは "古典の時代背景を参考にしながら古典を理解しようとする目的で研究される批評" のことで、
特に聖書の場合、聖書の各編が書かれた年代や、その著者を特定しようとする試みから始まり、
歴史的、科学的な視点から、聖書の真相を研究する学問が現在でも続いています。


聖書を一字一句切り刻むようなこの行為は、理解というよりも分析で、
キリスト教原理主義者たちには特に受け入れがたい考え方のようです。

キリスト教徒にも色々あって、
"聖書の無誤性"といい、聖書が原典において全く誤りがない神の言葉であると信じている人々もいます。

このような原理主義者たちはファンダメンタリストなどとも呼ばれ、
未だに進化論を否定したり、天動説を信じている非科学者だと揶揄されたりもしますが、
それが良い悪いではなく、世界にはそういう考えの人もいるのだと知っておくべきことでしょう。


彼らにとっては、聖書は自分たちの存在の前提であって、
唯一無二の絶対知であり、
その聖書の整合性を正したり、矛盾を追及されることは甚だ不愉快なことなのです。



そう、聖書には荒唐無稽な奇跡もたくさん登場する。

キリストが水の上を歩いたり、水をワインに変えたり、死後3日後に復活するなんていうことが。


冷静に合理的に考えれば、そんなことは誇張だとわかります。
何のための誇張なのかといえばただ一つ、イエスが偉大な人物であったと人々に知らしめるため。

特に新約聖書は当時の新興宗教であったキリスト教を布教されるための伝道の書である。

そのために人の手によって様々な改編、削除、付加の工程を経て現在の聖書が編纂されたのだという前提は、
超リベラルとまではいなかくても、
現在の多くのキリスト教徒の間でなんとなく受け入れられている考え方かなと思います。



聖書は神の言葉ではなく、人の手によって書かれたもの。

それに気づいたときから、神学者の中でも聖書の真相に迫りたいと考える者が出始める。
それが高等批評のはじまりだったと思います。


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(参考wiki:高等批評)
http://goo.gl/KLirVn
(英語版wiki:Historical criticism)
http://en.wikipedia.org/wiki/Historical_criticism

さて英wikiによると、高等批評のはじまりはエラスムスやスピノザだったとあります。

人が人の自我に目覚めたルネサンスの時代に、人文主義的観点からエラスムスは聖書を見ることを始めた。

そうして云々と歴史を重ね、高等批評研究が盛り上がるのは19世紀のドイツ。

ダーフィト・シュトラウスの『イエスの生涯』(1832年)が書かれた頃です。

(参考wiki:ダーフィト・シュトラウス)
http://goo.gl/71XeqZ


この著書は恥ずかしながら未読ですが、
イエスは神の子であり絶対的に神聖なものであるというキリスト教の根本的な思想を否定し、
イエスはただの人で、聖書は人が造った神話であると断定しています。


神は人が造ったものである、という逆転的発想は、
我々日本人には あー 漫画やゲームなんかでそういう展開があるなー くらいの
割とよくある設定、くらいのラフな気持ちで受け取れてしまいますが、
当時のキリスト教社会においてはとんでもない冒涜的な発想だったため、方々からたくさんの批判を受けました。

(教えてgooのこの質問も面白かったので参考までに:
http://oshiete.goo.ne.jp/qa/5800840.html


数々の批判も波紋も呼びましたが、高等批評の目覚めは、
人々に新しい見地をもたらし、今自分が寄り処にしているものが、
完全・絶対に正しいものではないのかもしれないという気づきを興したものだと私は考えています。


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この日記でもポンテオ・ピラトのエントリでちらりと書きましたが、
福音書はローマ人への伝道のために、ローマ人であるピラトの扱いで下駄を履かせていた可能性が高いのです。

既にこの段階でもう作為的な改編がある。


特定の目的をもってイエス伝を編纂していたのではないかという見方をすると、
もう一方に浮かび上がってくるのはユダヤ人の扱いです。

まるでイエス殺しはユダヤ人のせいだったと言わんばかりの記述は
伝道対象であるローマ人を持ち上げる一方で、
ローマ人、初期キリスト教信者にとっても相容れなかったユダヤ人をただ下げるものでした。


そうした目的を持った思想は反ユダヤ主義を生み、
長く西洋社会でユダヤ人への差別を助長してきました。


この日記でも、ユダヤ人がなぜ嫌われていたのか書いたことがありますが、
(2017年3月28日と4月1日のエントリをご覧ください)

民族性、信仰の違い、金融業の摩擦が理由として大きい中で、
やはりキリスト殺しの犯人だという認識もまた、彼らを迫害する動機のひとつだったといわれています。



サウスパークでは性格の悪いカートマンが、ユダヤ人の友達であるカイルを
「ジーザスを殺したユダヤ人」とからかうシーンがよく登場します。
たとえばこんなの:http://www.youtube.com/watch?v=q0IXsACBRco


今ではこんな軽口を真に受ける人もいないと思いますが、
「お前の母ちゃんでべそ」級の慣用句化した軽口になっていることから、
西洋社会でいかにユダヤ人への差別の刷り込みが長く広く行われていたかと察せられます。


まして近代以前の、教会や聖書がすべてであり、
歴史的・科学的に公正で合理的な目で物事を見るなんていう発想も知らなかった時代の人々にとっては
ユダヤ人は悪そのもの、なぜなら聖書にそう書かれてあるから。


信仰のための教典が人々の思考を奪い、考え方を固着させていたという事実は否めません。
その上その教典に作為的な意図があったのなら…



そこに登場した高等批評的な視点は、
自分たちの教典は果たして真実なのか、一方通行のものではないのかという自問と考察の機会を与え、
偏見に対処する心がけも芽生えるきっかけだったと私は考えています。


高等批評の科学的なアプローチは冷静で客観的な観察から生まれたもので、
そこには偏見も錯誤もありません。




私たちの知る歴史、そこに書かれてあることは、果たして真実のものなのだろうか?

嫌われているあの人は、本当にその評判がすべてなのだろうか?


こうした考えは、何も聖書の世界だけのものではありません。
我々の日常世界においても、常に意識しておかねばならない姿勢です。


現代でも特定の対象を批判する材料に歴史を引き合いに出すのは注意を心がけねばならないこと。

なぜならその史料もまた、誰かが何かの目的のために作為的に変えてきたものなのかもしれないから。


今でも我々が知る歴史が真実かどうかなど確かめる術もなく、
ただ目の前にある資料、あるいはそれを語るその人が真実を伝えていてくれるのだと、
そのものへの誠実さを期待し信用しているにすぎません。


こうした不確かさがあることは忘れてはならず、
もしかしたら自分は間違っているかもしれない、と頭の片隅にそういう自覚を忍ばせておくことが大事なんだと考えています。



肝心なのは物事の本質を見抜く目を養うこと。


聖書の物語にしても、大小の改編や齟齬はあるかもしれないけれど、
それを排しても残る芯こそが、我々が学ぶべき本質なのだと思うのです。

これは信仰の有無を問わず、キリスト教だけでなく世界中のあらゆる信仰や教えの中で、
人間に共通した知や真理がある。


科学的なアプローチは偏見も古い因習も素通りするけれど、
それだけでは見えてこない本質を学ぶことを疎かにしてはなりません。



私がEpisode 3-3 でマルセルに言わせたセリフは、
そういった諸々のことを包括させた内容でした。

そうして今回のEpisode 5-3 part3でカリストに言わせたセリフにようやく帰着させられたと思います。


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ところで、サウスパークのカートマンはヒトラーの化身よろしくユダヤ人がとにかく嫌い。
(でもユダヤ人であるカイルとはなんだかんだで仲がいい)

私のお気に入りのエピソードで、汚言症というトゥレット症候群を扱った "Le Petit Tourette" という回があります。

http://southpark.cc.com/full-episodes/s11e08-le-petit-tourette

トゥレット症候群の少年を利用して人気テレビ番組に出ることになったカートマンだけれど、
あることでどうしても番組に出たくなくなって、珍しく必死に神に祈る。
そしてカイルに助けられるというお話。

カートマンが、
「神さまに助けてくれってお願いしたんだ するとお前が来たんだー」
とカイルに泣きついたところが大好きです。





Date: 2018/07/08(日)


イエス大暴れ

アグレッシブなこのコマはなんだよ、と思われた方もいらっしゃるでしょう。

これは辺境で布教活動をしていたイエスがいよいよエルサレムに昇ったとき、
これまで穏やかだった彼が突如、神殿で商売していた商人達に激怒し、彼らの店を破壊するというお話からきています。


イエスがエルサレムに入城したのは過越祭が近づいている時期で、
各地から巡礼者が押し寄せ、お祭り騒ぎのような賑やかさになっていました。


過越祭ではその準備の日に備えて生贄を神殿に捧げるのが習わしでした。

これは既に私もEpisode 5-2 に描いていることなのですが、
旧約聖書『出エジプト記』で神がイスラエルの民とファラオの民を区別するために、
イスラエル人の家の門柱とかもいに雄羊の血を塗り付けるよう言いつけられた故事からきています。


イエスがいた時代においても、出エジプトを記念する過越祭はとても大事なお祭りで、
生贄の血を神殿に捧げることが何より人々にとって重要な宗教行事でした。

そのため生贄用の動物を売るような屋台や、賽銭用の両替商の店がエルサレム中に出回っていたのです。

金持ちは牛や羊、懐寂しい人は鳩などを買い求め、
神殿の生贄の祭壇の場で屠殺して血を捧げたいう…

神社仏閣で血なまぐさいものは禁忌と認識しているような我々日本人には、ちょっと絶句するような光景ですね。

この生贄の風習は野蛮であると支配側のローマ人も感じていたようですが、
広く知られている通り、ローマ帝国は支配地域の宗教・文化・風習には寛大な政策を採っていたので
まあやむなし、と看過していたようです。



このような過越の大祭に向けた一年に一度の賑わいがあった中で、
イエスが突如として怒りだして大暴れしたのは、
神殿は祈りの場であって卑しい商売の場ではない、という理由からでした。


そんな滅相な。
日本の神社仏閣の門前町の土産物屋もことごとく破壊されてしまう。


しがない一般人にとって、エルサレムに巡礼して生贄を捧げることは、
お伊勢参りの如く、生涯に一度は行ってみたい憧れの旅路の目標であったはず。

そこまで激怒されて叱責を受けねばならないことか… ?



この珍しいイエス大暴れエピソードの解釈として、
イエスはわざと目立って逮捕されるために屋台を破壊したのだという解釈を読んでなるほどと感心しました。

イエスが暴れれば、当然噂は立ち、敵対者だったサドカイ派の者たちにも伝わってしまう。
彼を逮捕する口実にもなりかねない。
イエスはこれを狙っていたというのです。



イエスの処刑日は、共観福音書と呼ばれるマタイ、マルコ、ルカ伝では過越祭の当日に行われたとあります。

つまりイエスは、ちょうど過越祭の日に処刑されるよう、目的の決行日を決めて逆算しながら行動していたというのです。

そもそもエルサレムに昇れば自分は逮捕され、殺されてしまうとイエスは知っていたし、自ら弟子たちにも伝えていました。

人々の心配や反対を他所にエルサレムに昇ったのは、死にに行くため。
自らが過越祭の生贄となって神にその犠牲を捧げるために、きっちり予定を立てて行動していたというのです。



阿刀田高先生も、本件のイエスの行動について、
フランスのフレデリック・フォーサイスの小説、『ジャッカルの日』 のたとえを用いて論述されていました。


小説の中で殺し屋ジャッカルは、作戦の決行日を先に決め、それに合わせて逆算して予定の行動を進めていた。
それを刑事ルベルは見抜く…


なぜルベルはジャッカルが予定日から逆算して行動していると気が付いたのか?

彼はフランス人、恐らく伝統的なカトリック教徒だろう。
さすれば、イエスの行動を幼い頃から教え込まれ、覚え込んでいたに違いない。

その行動のひとつひとつが、目的の日のために計算されたものだと気が付いたのだ… 

というのが阿刀田先生の見解です。




ところで、4つの福音書の中でヨハネ伝だけはイエスの処刑は過越祭の前日にあったと書かれています。

共観福音書とヨハネ伝が分けて扱われることが多いのは、
ヨハネ伝が最も執筆された年代が新しく、他の3つの福音書と重複していない記述が多いこと、
独自の描写も多く、かなり脚色された点が多いことなどが理由です。


エヴァンゲリオンのせいで変に有名になってしまったロンギヌスの槍も、ヨハネ伝にしか登場しません。

これは、十字架の上で息を引き取ったイエスが本当に死んでいるか確認するため槍で胸を突いたところ、
血が流れだしてきた、という記述に由来します。(ヨハネ伝19章34節)


過越祭の前日というのは、出エジプト記で言うところの門柱とかもいに雄羊の血を塗り付けた日でもあり、
わざわざこのイエスの血な流れるという描写を加えたのは、
イエス自身が過越祭の生贄だったと強調するための文学的脚色ではないのか、という解釈を読んでこれまた感心しました。


イエスの胸に傷かつけられたという記述はヨハネ伝にしかないものの、
磔刑図やその他イエスの絵画ではよく胸元に傷が描き込まれています。

ヨハネ伝20章の24節〜28節には、
イエスの復活をにわかに信じられない弟子のトマスに対して、
イエスがその胸の傷に指を入れてみよという記述があります。

『聖トマスの懐疑 』 (Incredulita di san Tommaso) というカラヴァッジョの作品が、これを描いたものの中で最も有名でしょう。
http://www.salvastyle.com/menu_baroque/caravaggio_tommaso.html



Date: 2018/07/01(日)


イエスと原罪

イエスが人間の罪を背負い、磔刑に処されたとはどういうことやねん、
とお思いの方もいらっしゃるのでしょうが、
これはキリスト教の教義の中でも特に重要な部分かと思います。


特にカトリックなど西方の宗派では、人間は弱く愚かで堕落しているという性悪説的な考えが根底にあります。

そもそもこの考えの元となるのが、旧約聖書『創世記』第3章にある、
有名なアダムとイヴのお話です。

蛇にそそのかされ、知恵の実を食べたふたりは神の怒りを買い、楽園を追放される。

(アダムとイヴを描いた絵画では、アルブレヒト・デューラーの作品が好きです)
http://goo.gl/qJukM1


女は出産時に苦しみを与えられ、男は食べるために労働しなくてはならない。


生物としての人間が避けることができない労役が、神から与えられた罰であり呪いなのだという。

そしてアダムとイヴの子孫である我々人間はすべて、生まれながらに人類の始祖が犯した罪="原罪"を背負っているという概念です。


イエスはこれら人間の罪を代わりに引き受け、償うために、
自らを神への捧げものとして十字架にかかってくれた、
というのが信仰の教義として特に重要な解釈になるのです。


Episode 3-3でもマルセルが、「イエスは人民の罪を背負い 犠牲になったのではないのかね」 というセリフを言っていましたが、
ここを覚えていてくださる読者の方がいらっしゃれば作者はとても嬉しいです。




イエスが人間の罪を背負い償ってくれた、というお話を
リーマンショック後のアメリカを風刺して見事にオマージュしたエピソードがサウスパークにあります。

シーズン13の"Margaritaville" という回です。
http://southpark.cc.com/full-episodes/s13e03-margaritaville#source=fba639b0-ae4d-49b0-9d5d-addb27823f4b:25eebf82-ed8e-11e0-aca6-0026b9414f30&position=3&sort=!airdate


アメリカ人は後先考えずローンを組んで欲しいものを手当たり次第に買いますが、
リーマンショックが起こって経済は大混乱を迎える。

人々は無計画な借金に右往左往しますが、そこに救世主が現れる。

上限なしのブラックカードを持ったカイルです。

カイルは、自分のブラックカードが無制限なのを利用して、人々の負債を肩代わりしてどんどん帳消しにしていきます。
その処理に次第に疲弊してゆく姿はキリストそのもの…



例えが見事だなぁ、と わかりやすくて感心した回でした。


Date: 2018/06/29(金)


INRI

イエスが磔刑される際、十字架にはその罪状が掲げられたと言われています。

「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」 と表記され、
ラテン語では "IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUM" となります。

この頭文字を並べて "INRI" と省略して絵画などに描かれる場合がよくあります。


マティアス・グリューネヴァルトの『イーゼンハイム祭壇画』などがその例です。
http://en.wikipedia.org/wiki/Isenheim_Altarpiece


これは現在でも教会等にある磔刑像などにも使われている表記なので、
皆さんも海外旅行等で教会を見学される際は、覚えておかれると、鑑賞するひとつのきっかけになって楽しいと思います。



ところで、「ユダヤ人の王、ナザレのイエス」 という記述が見られるのはヨハネ伝だけなのですよね。

他の共観福音書と呼ばれる、マルコ、マタイ、ルカ伝では「ユダヤ人の王」という記述なだけで、
史実はそちらの方が近かったのではないかなと思います。


ナザレとは、イエスの生まれ故郷の町の名前で、
わざわざそれを書いたあたり、ヨハネ伝は文学的脚色がされている福音書だと評価される所以かな。
Date: 2018/06/25(月)


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