【 MY NOTE 】

MY NOTE:つれづれと綴るもの。


サイトのデザイン一新しました  2019/03/08(金)
『MATSUMOTO』  2019/01/17(木)
Episode 6-2 の始まりです  2019/01/08(火)
渦というかたち  2018/12/29(土)
「自ら方向を変えなければ、今のままで終わるしかない」  2018/12/29(土)


サイトのデザイン一新しました

私は気の長い性格で、もう十数年、このサイトの階層構造もデザインも変わってないのですが、なんとなく全てスマホにも対応させたページに変えようかなと思ったり…

漫画のスマホ版だけは数年前にHTML5UPというサイトからテンプレを頂戴して作りましたが、サイト全体となるとかなり大工事。


でも思い立ったらすぐにやらずにいられない性分で、突貫工事でサイトのデザインを一新してみました。


恐ろしいことに大学時代から一切変わっていないギャラリーページ等、古いコンテンツを整理したところ、超スッキリ。

アレですね、着ずにタンスの肥やしになっている服と一緒で、
既に更新する情熱のなくなったサイトのコンテンツは二度と更新されることはないのです…


サイトの断捨離を決行して、かなり清々しい気持ちになりました。
このまま当面、漫画だけのサイトで頑張ろうと思います。


絵を飾るギャラリーページは、また油絵を再開したら作りたいなぁ…

この大長編漫画への挑戦が終わったら、油絵を再開したい。
それが今のちょっとした夢になっています。



ついでに新しいサイトデザインの暫定タイトルバナーに、適当に古いイラストと素材で組み合わせて作ったら、
なんだかソレっぽいアルバムジャケットみたいなデザインになったぞ。

ちゃんとタイトルバナー描くつもりでいたんですが、なんだか面倒なのでこれでもいいかな(笑)
Date: 2019/03/08(金)


『MATSUMOTO』

近頃バンド・デシネの新刊をさっぱり追えていなかったので、
今年はインプット読書も充実させたいと思い数点買い足しました。

自分の漫画制作のアウトプットにばかり時間を割いていて、
インプットを全然できていなかったというのがちょっとした負い目でありました。

今年は時間の使い方を見直して、読書生活も充実させたいと思います。



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さて一冊目のレビューは『MATSUMOTO』

松本サリン事件を中心にした一連のオウム事件を扱ったバンド・デシネです。

試し読みはこちらでどうぞ:
http://www.ebookjapan.jp/ebj/409430/volume1/branch1/


この本の存在を知ったとき、まずオウム事件が海外でも大きく報道されていたんだ、という事実が新鮮でした。
当時インターネットもなく、海外メディアがどのようにこの事件を報道していたのか、
子供だった私には知るすべがなかったのです。

フランス人の視点から見たオウム事件の描写はどんなものなのだろうかととても興味をそそられました。


本作は日本の文化に関心の高いフランス人に向けて企画され、出版されたものということで、
日本人の生活の様子を子細に観察されて描かれている。

海外の漫画で日本人を含むアジア人は、ステレオタイプ化された顔で描かれることが多い中で、
日本人の表情を様々に描き分けられているのは好感が持てました。

作画のフィリップ・ニクルー氏自身が日本の愛好家であることが伝わってきました。


オウム事件のとき、私は小学生で、
麻原彰晃といえば、もう子供にとってはかっこうの面白ネタだった。

しょ〜こ〜しょ〜こ〜 と歌ってはゲラゲラ笑う。

なんだか面白い、変なおっさん。子供にとっては愉快なマスコットに見えた。


私より10歳年上で、当時大学生だった夫は
大学の構内で勧誘に来ていた麻原を見たことがあるそうで、
夫は私よりも鮮明にこの新興宗教団体の興りを記憶しているそうです。

優秀な学生をヘッドハントするために若者たちにすり寄っていた麻原彰晃。
自分の日常のすぐそばで、凶悪犯罪に引きずり込まれていった人々がいたことを想像するとゾッとします。


オウム真理教が真理党という政党を結成し、国政選挙に臨んだとき、
アホなこと始めよったなぁ、と私の父や兄が笑っていたのを記憶しています。

当然、真理党は大敗。一人も議員を送りだせなかった。


当時の世間では、珍奇な宗教団体が無謀なことをしている、と笑うのがせいぜいでしたでしょうか。
彼らのパフォーマンスを面白がっていたりして、そこには警戒心のかけらもない、のん気な空気が漂っていたと思います。


しかし、彼らは本気だった。

テロを起こす契機のひとつに国政選挙の大敗があったと指摘されているように、
彼らは世間が捉えるよりもずっと真剣に行動を起こしていた。

彼らをあざ笑い、大敗の辛酸を嘗めさせた世間への憎悪がしんしんと募っていったのだと想像します。



20世紀の最後から、21世紀にまたがるテロ事件の先駆けは、このオウム事件にあると本書では捉えられています。

我々日本人の経験から、本書から学べることは、
妄信から始まるテロリズムには必ずその前兆があり、世間はそれを迂闊に軽視すべきではないということでしょうか。

過度な相互監視は、それはそれで窮屈な世相を作ってしまいますが、
あまりに他者の挙動に無関心でいるのも、テロリストたちに攻撃を仕掛ける隙を作っているのかもしれません。


またカルト団体の手から若者たちを守るためには、
彼らの居場所をなくさないようにすることが肝心だという、著者のボレ氏の言葉は大人として反省させられた気になりました。


カルト団体に引き寄せられていったのは、
阻害された人、自分を認めてほしかった人、誰かに心の支えになってほしかった人、
そういう弱い、特に経験の浅い若い人々でした。


若者を利用しようとする悪い大人の登場は、どうしたってなくすことはできないけれど、
せめて自分の身の回りだけは、そういう悪い大人から子供たちを守ってあげたい。

最後にそれを警告してくれる一冊になっています。




Date: 2019/01/17(木)


Episode 6-2 の始まりです

明けましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。


漫画を描き始めて15年目に突入しましたが、
昨年くらいから、あまりのしんどさに心が折れそうになることしばしば、
こんな労力のかかる漫画は30代のうちに終わらせたいという気持ちが強くなってきました。

あと数年のうちに完結させることが目標になりつつあるので、
今年もバンバン、ハイスピードで更新していけたらいいなと思います。


そのためにも心身ともに健康でありますように。



さて、今日からEpisode 6-2 の始まりです!


漫画を描いている最中は休みてぇ〜、休みてぇ〜とばかり思うのですが、
いざ年末年始の数日休んだだけでも勘が鈍ってしまってよくありません。

マグロの如く、止まったら死ぬ、くらいの勢いで描き続けたほうがいいのかもしれません。

制作ペースと休憩の取り方を、探りながら良い感じに自分のものにしていきたいです。

Date: 2019/01/08(火)


渦というかたち

私は分子生物学者の福岡伸一先生が好きすぎて漫画の中でもよく引用していますが、
今回も福岡先生の言葉をいくつかお借りしました。


太古から人間の文化の中で受け継がれてきた文様の意匠は、自然の中から見出されたものが多いという。

例えば渦巻き。
これは世界中の古代文明の遺品に共通して見られる意匠で、
人間は渦のかたちに生命力の象徴性を見出していたのではないかという考えが定説です。


自然界の中で渦を巻く姿が示すのは"成長"

太古の人々は渦の姿に生命の絶えざる動きとバランス、エネルギーを見てきたと福岡先生は言います。



渦巻きの意匠で有名なのは古代ケルト文明の遺品たちですが、
ケルトの意匠には三つ巴(トリスケル)がよく登場します。


「そのパターンは、ひとつの渦巻の外周から発してもうひとつの外周へ流れ込んでいく。
あたかも渦巻の激しい旋回のエネルギーをそのまま受け止め、少しも失速させることなく次のものに伝えるという、
きわめて動的、すぐれて柔軟なはたらきをしている文様なのである」

という解説は、鶴岡真弓著『ケルト/装飾的思考』によるものです。


福岡先生は、このトリスケルの文様こそ生命活動の端的な表出だと指摘されていました。


「ある個体が死ぬと、その住まいや食べ物、活動していた時間は別の個体へバトンタッチされます。
生命は、その繰り返しによって永遠に連続するのです。
その意味で個体の死は最大の利他行為です。
ケルトの渦巻きが表すのはまさにそうした循環であり、関係性に他なりません。
彼らは生命現象の本質を直感し、それを渦巻に託したのです。」



ところでホラー漫画家、伊藤潤二さんの『うずまき』という作品があります。
http://comics.shogakukan.co.jp/book?isbn=9784091857217

以前読んで大変怖かったと記憶しているのですが、一方で絵が美しい作品でした。

あのうずまきは何だったのか。

あれは死の象徴というよりも、過剰すぎる生命エネルギーの暴走だったのではないか。


何でも過剰なものに人間は恐怖を抱くものですね。


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一方、漫画の中で「トリスケルのように始まりも終わりもなく 完成も目指さず」 と描いたのは、
福岡伸一先生が、完成を目指さない思想はとても生命的だ と指摘されていたからでした。


栃木県の寺野東遺跡にある環状盛土は、縄文時代の建造物の遺跡で、ざっと1000年の工期で造られていたと推測されています。
http://www.city.oyama.tochigi.jp/soshiki/5/366.html


数十世代に渡って工事が続けられていたのは、
造営物を完成させることが目的だったのではなく、未完成を続けることにこそ意味があったのではないか、と。


完成を最大の目的にするのならば、造営物の規模を小さくすればいい。
けれどそうではなかったのは、造営を続ける行為こそ、当時の人々に重要なものだったのだという考えです。

縄文人たちは、狩猟し、食べて寝て、そして延々と土を積み上げる。
死んでもその子供たちがその工事を受け継ぎ、延々1000年間。

現代人の感覚だと気が遠くなるようなお話ですね。



「現代人は常に物事の完成を迫られ、締め切りや納期に追われています。
しかし、完成を至上命題とする価値観は近代の所産です
(中略)
動的な平衡を維持し続ける生命には完成はない。
同じく、そのときどきの状況に応じて小さなつくり替えを繰り返す生物の進化にも、完成形というものはあり得ないのです」

という福岡先生の言葉にチクりときました。



私は完成を目指して延々この漫画を描いていますが、
別の視点から見れば、それは近代の人工的な価値観に捉われているだけだった。

完成形を理想とせず、未完成なものでも続けることに意味があり、価値を見出す人もいるのです。

私は自分の視野の狭小さを改めて知って恥ずかしくなった気分でした。


けれど漫画の完成は目指しますけどね!!!!!(笑)


私はただひたすら完結を目指して描き進めていますが、
福岡先生のこの優しい解釈に、心救われる創造者の人もいるのではないかなと思います。



学者の方の本を読んでいると、目から鱗的な世界の捉え方にふと心が軽くなります。


Date: 2018/12/29(土)


「自ら方向を変えなければ、今のままで終わるしかない」

忙しすぎて解説を書けていなかったので、ちょいちょい補足していこうと思います。


漫画の冒頭に引用したこの「自ら方向を変えなければ、今のままで終わるしかない」という言葉は、
私の大切な一冊『すばらしい人間部品産業』の最終章の導入で使われていた言葉でした。

すごくハッとさせられて印象に残った言葉だったので、
今回はこの言葉を膨らませた構成でいこうと考えました。



「自ら方向を変えなければ、今のままで終わるしかない」という言葉は、
本の中では"中国のことわざ" としか書かれてありませんでしたが、
調べてみると、どうも英語圏で知られている老子の金言らしい。



「自分で方向を変えない限り、人は向かった先に辿り着く」 というのが直訳的な意味で、

英語の原文ではだいたいこのような表現になっていました。

・Unles we change direction, we are likely to wind up where we are headed.

・If you do not change direction, you may end up where you are heading.



『すばらしい人間部品産業』を翻訳した福岡伸一先生が目にしたのは、2番目の英文だったんじゃなかろうか?

そして "end up" という句動詞を、"今のままで終わるしかない" という突き放した冷酷なニュアンスで表現している。


「嫌だ!このままでは終わりたくない!」 という気持ちを引き出してくれる言葉です。


私は何かにつけて、この言葉を思い出すようになりました。


ちなみに私はこの言葉を知ってから、
30女が痩せるためにはこのままではいけねぇ、と思い、ご飯食べる量を減らしました。


あら嫌ですわ、あまりに即物的で俗っぽい


ええもうほんと痩せないんですよ。
20代と同じ運動習慣でも食べる量を調整しないとホント太っていく一方なんですよ。酷。
Date: 2018/12/29(土)


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