ある遺伝子の機能が不明であった場合、それを大元から破壊(ノックアウト)して、 正常の生体との行動や状態を比較し、遺伝子の機能を類推する研究法があります。
マウスは、繁殖のしやすさや塩基配列が人間と99%同じという特性から遺伝子ノックアウト技法の重要な実験動物になってくれています。
では、遺伝子の大元を破壊するにはどうしたらいいのかというと、 全ての細胞の出発点である受精卵を操作して、薬剤を用いて特定の遺伝子を破壊するのです。
そうすると、受精卵が分裂を繰り返し体組織が形成されても、細胞ひとつひとつの核に収まるDNAは、 特定の遺伝子が欠損したままコピーされていることになります。
このあたりのノックアウトマウス作成の技術については、福岡伸一先生の『生物と無生物のあいだ』で門外の人間にも大変分かりやすく解説されています。 興味のある方は是非。
この日記でも以前触れたことがありますが、 福岡伸一先生は、若い頃の研究対象であった謎のタンパク質GP2をめぐって、 ノックアウトマウス実験からその後の文筆活動の柱になる生命観を得たといいます。
GP2とは膵臓内の細胞に存在するタンパク質で、その数の多さから重要なものに違いないけれど、まだその役割がよくわかっていない。
そのためポルシェ3台分の費用を投じてGP2に関連した遺伝子を破壊したノックアウトマウスを誕生させる。
重要なタンパク質が欠損しているのだから、このマウスにも何か異常が起こっているはずだ。
しかし、特に以上は見当たらない。マウスは何事もなく一心に餌を食べている。 確かにGP2関連遺伝子は欠損しているのに。
「何も異常が発生しなかったことに落胆するのではなく、何事も起こらなかったことに驚愕すべきなのである」 と福岡先生は自身の言葉でまとめられています。
GP2の欠落を、ある時以降、見事に埋め合わせた結果、マウスはそこに平然と生きている。
生命というものは、部品が欠ければ動かなくなってしまう機械のようなものではなく、 何かの欠損が起こっても、他のものが枝を伸ばしそれを補い、生きるためにやわらかく姿を変えて平衡状態を保っているのではないか。
GP2をめぐる研究のため、臨死体験したような気になるほど延々とマウスを解剖し、膵臓をすり潰し、気の滅入るような淡々とした作業の果てに得たこの経験は、 その後の福岡先生の文筆活動の中でも一つの大きなメインテーマとなり、繰り返し美しい言葉で表現されています。
そして福岡先生のこの考えは、生きている上で、平穏無事な人でもいつ病や怪我で欠損に見舞われるかもしれない状況の中、 あるいは既にそういった欠損に苦しんでいる人をも優しく慰めるものでもあるなと常々感じています。
体の中から何かが欠けてしまっても、生命はゆっくりと形を変え、不足を補い、生きていこうとする。
苦しみや喪失感に悲観して死を展望するのはあまりに悲しい。
体は新しい姿に順応するために、ゆっくりと形を変えていっている。
そうしたイメージを自分の中に持っておくことは、ある日突然の不幸と居合わせた際にも 自分を守る優しい籠になってくれるような気がしています。
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Date: 2019/06/13(木)
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