【 MY NOTE 】

MY NOTE:つれづれと綴るもの。


Episode 6 で描きたかったことなど  2019/08/03(土)
PCRのひらめき  2019/07/31(水)
『ジーザス・クライスト=スーパースター』 とラファエロ前派に飛躍する話  2019/07/21(日)
Heilung 『Futha』解説  2019/07/10(水)
ネットプリント初体験  2019/07/08(月)


Episode 6 で描きたかったことなど

本編113ページから始まる少年たちの会話は、今後の展開に向けての象徴的な予兆にしたいと思い、Episode 6の制作開始直後からずっと考えていたものでした。

数か月に渡る思考の末になんとか難産でまとめ上げたものなのですが、
漫画の中であまり長ったらしく説明するのも憚られて、だいぶセリフを要約しているところがあります。

その補足と、私が本作を制作する中でずっと悩み続けていることをこの機に書き出してみようと思いました。


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アイシュガルド先生が同性愛者であることは、お察しの良い読者さんは気づいてくださっていたでしょうか。

もう古くて絵が下手で自分で見返すにも自分にダメージ状態なのですが、Episode 2-3 の103ページあたりから始まる先生とマルタさんの会話にそっとそのことを忍ばせていました。


アイシュガルド先生というキャラクターを想起したとき、自然とそんな人であるイメージが降りてきました。
本作の制作を開始するかなり初期の段階からその設定は固まっていました。


しかし先生の性的指向を今日までクローズアップしなかったのは、
個人の性的指向の多様性は、ごく当たり前に存在する普通のことだと私自身も考えているからです。

漫画の中で別段それに焦点を当てるほど奇異なことでもないと思うので、今まで特にそれを誇示して表現することはしてきませんでした。

そのため長い漫画ゆえに過去の古い原稿の台詞なんて覚えてないよ(大半の方がそうだと思います)という読者さんには、
突然のセリフ展開に「えっ そうなの!?」と驚かれるかもしれませんが、
今までなぜそれを示唆するような描写を継続して掲示してこなかったかというと、
先述の通り性的指向の多様性がテーマではない本作において、わざわざ特異な存在のように扱うことでもないと考えたからです。

性的指向の多様性は、ごく当たり前に存在することです。





本作は、「生物学的に実子ではない子供を養育する」という利他的行動の連鎖がひとつのテーマになっています。


主人公は、人工授精によって誕生した生物学的に実子ではない養女ハトシェプストを育てる決心をした。
そんな彼は、子を授かれず苦しむ同僚や同じような立場の人々に、養子を授ける手助けをしたいと想起した。
そんな彼もまた、生物学的に実父ではないアイシュガルド先生に育てられた。

そういった利他行為の繋がりを大長編の漫画の一本の縦糸にしたいと考えたのです。


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さてEpisode 6-3 に入ってようやくアイシュガルド先生の性的指向について語る展開を用意したのですが、
ここにきて主人公の行動の基準になる思想をまとめておかねばと思ったからでした。

科学者である彼が、一体どういう思想を軸にして物事を捉え、考え、行動しているか、ということです。

ゴニョゴニョした彼のセリフを眺めていると、なんとなく人間社会全体の維持のために働くことが尊いと言っている様子です。

子孫を残すことも尊いけれど、それが適わなくても別の手段で社会にも貢献できる。
貢献の度合いの大小は、人の存在の価値を左右しないとも言っている。

彼のこの主張は現代の我々の倫理観から見ても腑に落ちるものと私は考えています。


こういう個人と全体の関係性を、倫理的な観点で捉えた言葉で "One for all, All for one" というものがありますね。

宮崎駿監督は『風の谷のナウシカ』で「個にして全 全にして個」という表現をされていたのを思い出します。

元のラグビー用語では「一人はみんなのために、みんなは一つの目的(あるいは勝利)のために」という訳が本来の意味らしいのですが、
ともあれ一人は全体のために働き、全体は勝利(種の保存)のために働くという考え方は、
誠に明快で心地良いもののように聞こえます。



しかし自然科学的な観点から見ると、生物が社会全体(あるいは種)の維持や繁栄のために行動することは通常ありえないと言われています。

種の維持のために生物が行動するという論理は「群淘汰説」といって、人間の主観的な誤解から来たトンデモ学説とまで呼ばれるほど。(今のところ)



自然淘汰は種や群れなどという個体の集合に対して起こっているものではなく、
個体そのものに対して起こるもので、その淘汰の単位になるのが遺伝子なのだというのが、ドーキンスを始めとする「利己的遺伝子論」派の考えです。

遺伝子は自らの複製としての子孫をより効率的に恒久的に残す方向にのみ進化する、というのが基本の考えです。
淘汰の最小単位は遺伝子で、ゆえに同じアホウドリという種であっても、他人のことは知ったこっちゃない。生存のためのライバルだという。


例えば生物は飢餓を防止するために産児制限をすることがあるのか、という問に対して、
群淘汰論では群れ(種)の利益のために利他的に産児制限することもあり得ると説いています。

一方で利己的遺伝子論では、産児数はそれぞれの個体が養育できる子供の数の最適解に落ち着くのだから、利他的に産児制限はあり得ないという。
自分が養育できる以上の数の子供を産んでも、資源のロスが生じてライバルの他人を有利にさせるだけだからです。


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どの理論が正しいというのは未だ論争上のことで、私にはこの説が正しいと断定することはできませんが、
自然科学で語られる科学的な論理と、人間の倫理観を混同してはいけないということを、ちょっとここで書いておきたいと思いました。

特に「生命の目的は子孫を残すこと」と定義した場合、人間にあてはめた場合不幸なにおいが増すからです。


子孫を残せず社会に貢献できなかった人は社会のお荷物だ、という割り合いよく聞くこの手の暴論に対して、
論拠として科学の論理を提示すると、途端に素人では太刀打ちできない強堅な理屈のように感じて委縮してしまう。

また、多くの自然科学論者はそのように論理を使ってほしくないと願っていることです。


群淘汰的な姿勢でこの問題に切り込んだ場合、増えすぎた種の個体数を調整するために子孫が残せなかった、という結論に飛躍する場合もあるし、
利己的遺伝子論の考えで解釈してみると、ただ淘汰されるだけ、という虚無に陥りかねません。


自然は善悪を判断しない。
科学はその自然の理屈を人間に理解できるレベルに分解して解釈しようと試みているだけ。
人間の倫理観は自然の中にあるようで、実際は別の次元にあるのかもしれません。


その自然科学から善悪を判断しようとする人間の誤解は「自然主義の誤謬」という専用の言葉まで用意されているそうですが、
いずれにせよ我々は、この社会の中で他人へのイラ立ちから、あるいは自分の存在の意義を見つけるために科学へ解を探そうとしがちですが、
まったくそれは見当違いなことのようです。


なぜ自然科学だけがこのような誤解を招きやすいのだろうかと考えると、扱う尺度の違いかなと思えました。

科学で扱われる尺度があまりに小さすぎたり、あるいは大きすぎたりすると、もはや自分とは関係ないような概念の世界になって
それで自分の倫理観が揺さぶられることはほとんどない。

けれど自然科学は扱う尺度が我々の等身大で、実際に観察したり実感できるものだから、
科学的な見地と倫理観とを混同しやすいのだと思います。


生物において遺伝情報の継承と発現を担うのが、A,T,C,G 4種のヌクレオチドから構成されるデオキシリボ核酸である、と言われたところで
もはや分子レベルの話なので「ほーん そうなのかー」 くらいにしか思わない。

3億5000万光年先の超新星爆発を発見したからと言って、もはや規模が大きすぎて何が何やら(天文ファンの方ごめんね)


まことに扱う尺度が等身大だからという理由で、自然科学論者たちは門外漢からの質問の応酬に苦労してきたとよく聞くところですが、
かくいう私も誤解したり間違っているところも多々あると思います。すみません。



「なぜこの世界に同性愛者が存在するのか?」という点にフォーカスを当てられたこの記事は、
今回のシナリオを書く上で私のゴチャゴチャした思考をとてもよくまとめてくれました。

http://rootport.hateblo.jp/entry/2018/07/30/120000

長い記事なのですが、やさしい言葉遣いと見事な論調でとても感銘を受けました。
この著者の方の他の記事も時間を見つけて読んでみようと、私もブックマークしました。
大変勉強になるので是非皆さんも読んでみてください。


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ここまで語ったことを漫画の中で記述するためには一体何ページ割けばいいのか、本筋を脱線しているし冗長すぎる、ということで
癒し系ロンロに簡単にまとめてフォローしてもらうことにしました。


「生命がそこに生まれたのはなぜか 生命の目的は何か

その形質から科学的な論理で存在の理由を説明することはできるけど

論理の基準によっては 
その人は社会に不要なものだとか 自己犠牲を強いられるような結論に誤解されることがあるよね

科学的な論理と事実と 人間の倫理観は別の次元にいるから
両者を混同してはいけないんだ

僕は科学の観点と 人間の心の次元を行ったり来たりして
翻訳しながら 人の苦しみを癒せる医者になりたいな」


自分で書いたセリフながら、私はこの「翻訳」というところが気に入っています。


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ところで現在のところ優勢な「利己的遺伝子論」から、トンデモ学説だとコテンパンに批判されている「群淘汰説」ですが、
果たしてそうなのか? と別の視点を投げかける論文を読みました。

http://www.jstage.jst.go.jp/article/jpssj/41/1/41_1_1_1/_pdf/-char/ja

利他行動の進化は群淘汰の産物なのかという命題に対して、現段階では二者間で正誤を断定するのではなく「多元論」という立ち位置でとどまるべきだと説明されています。

「多元論」とは利己的遺伝子論による個体淘汰に、個体群構造という環境要因も加味する考え方だそうです。

論文にも捕捉されている通り、ドーキンスですら1982年出版の『延長された表現型』で「多元論」に姿勢を移行していおり、
利己的遺伝子論者の完全勝利、というわけでもないのが現状なのでしょう。
(論文でも「古典的遺伝子選択主義」と表現され、専門筋の人にはもはやちょっと古い考え方のようです)

科学の論理の優勢・劣勢は時代とともにめまぐるしく変化していくのだろうなと察します。


『延長された表現型』とはどういうことかというと、
ざっくり言うと、ひとつの遺伝子が作るものは生物個体だけでなく、個体がいる外側の世界にまで広がっている、という考えです。

トビケラの幼虫の巣やビーバーのダム作りがその説明の例によく挙げられており、
いずれもより有利に生き残るために作られるものであり、その生物の身体や形質そのものだけでなく、その外側の環境にまで広がっている。
そうさせるのは遺伝子の作用である、というもの。


人間の遺伝子に『延長された表現型』があるのかどうか。

集団を作り、社会を形成する人間は、その社会そのものが人間の遺伝子の延長された表現型ではないのか?
村落、都市、国家と枠組みは入れ子状になっており、その中の人間、強いては遺伝子そのものを継承してゆくために、社会はまるで生命体のようにふるまっている。
そういう誠に勝手な憶測も広がります。


戦争をするのは人間と社会性昆虫だけだそうですが、
社会の中の個体が優位に生存できるために、群れ・社会(種)全体の利益が維持される機構がある、という旧来の群淘汰説な考えも、
あながち全否定できないものなのかなとも思えます。


紹介した論文にある一節より:

 「真社会性昆虫のコロニーや海洋無脊椎動物の群体(カツオノエボシなど)は極めて複雑かつ統合的で共適応しており,
  それ自体で一つの生物体,あるいは「超個体」と言うことができるほどである.
  生物集団が「超個体」に近づけば近づくほど,構成個体間で利己的行動を相互に監視・抑止する行動が進化していく.」


この記述のあたり、私がぼんやり考えていることと似ているので興奮しました。


群淘汰説が一般的に否定される理由は、群淘汰が起こり得るような条件が自然界では殆ど成立しないから、というのが一つだそうですが、
そこに究極的な条件がそろった場合にどうなるのか、という疑問は検証しえないので答えがありません。
SF創作家にとっては勝手気ままに空想できる余地のあるところです。


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前置きが長くなってしまいましたが、
さて科学者である主人公が、一体どういう思想を軸にして物事を捉え、考え、行動しているか、ということについて。


彼はもちろん一通りの正統派の自然科学の見識は持ち合わせていますが、
一方で自分の心の中の良心では種の保存を心配し、利他的行動を良しとしている。

建前(自然科学の見識)と本音(心の中の良心)に齟齬があるのが、科学者としてどうなんだ? というのは我ながら疑問なのです。


優秀な科学者であるはずの彼が、人間主観の本音に固執しているのはおかしいんじゃないのか。
もっと自然淘汰に対してドライで冷酷でいてもいいんじゃないのか、という自問はずっと長い間私の中でくすぶっています。


「この矛盾をどうやって説明すればいいのか?」という収まりの悪い恥ずかしさに変わっています。


しかし、人間は自然淘汰される!しょうがないじゃないか!諦めよう!

という主人公では物語はなんら進まないのです(笑)


ここはあくまで物語のための積極的な誤り、という説明で見逃してほしいところです。



15年も描き続けているクソ長い本作に根気強く付き合ってくださっている読者さんは、
主人公が公正公平で思慮深い、いわゆる"できた人" だなんてとても思えないでしょう。

私自身も、まったく正しい無謬の正義の主人公として彼を描くつもりは毛頭ありません。

「必ずしも正しいことをしているわけではない主人公」を描くことで生じる不安感は、同じく創作をしていらっしゃる方にも共感していただけるところがあると思います。

私も常々そういう不安感に潰されそうになりながら描いていますが、
主人公や、彼だけではない、"ちょっとずつズレてる"本作の登場人物たちの言動や行動は、物語のための積極的な誤りなのだと見守っていただければなと願っています。



主人公は、幼い頃から養父のアイシュガルド先生に傲慢な性格だと指摘されていた通り、
自分の思想に頑固で、固執しすぎるきらいがあります。
それでいて自分が拒絶されることを極端に恐れているのは、クマイラとの恋が一度破局したときに彼が彼女に投げつけた感情に現れている。

やや無神論的な考え方をしており、彼の物事を捉える尺度は常に人間のサイズである。

友達との対等な議論を面倒くさがり、自分の思想をバックアップしてくれる強力な庇護者の登場を期待した。

軍人ストラウスは彼の願い通りの庇護者となって、アンドロギュノス実験に邁進していきます。

そのお話は、Episode 7以降で…


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ここまで書いて私の頭に浮かんだのは、
既存の倫理・道徳観や〇〇学といった見識を汲んだ創作をすることは
色セロファン紙を通じて世界を見ることに似ているな、ということでした。


子供の頃にセロファン紙遊びをしたのを思い出します。

色付きのセロファンで周囲を見ると、補色関係にある色は目立って見えるようになりますが、近似色は埋没してしまう。
創作で物事を表現することは、なんとなくこの色セロファンで世界を見ることに似ています。

しかし既存の倫理観や学問の見識を持たずに生まれる創作物などあり得ない。創作物は常に何らかの色を帯びているものです。

目立って見えてくる物事もあるでしょうが、同時に隠れてしまうものもある。
隠れてしまうことが避けきれないのを恐れたり、怯えてしまうのは創作者としてどうしようもないことなのかもしれません。



あれもこれもと色セロファンを重ねていくと、セロファンを通して見える世界は最終的には真っ黒になります。(これを減算混色という)
ちなみにPCのモニタ上で色を重ねていくと、最終的には真っ白になります。(加算混色)


自分で何を言ってるやら、と混乱してきましたが、
まあとどの詰まり、自分の創作の色をどのように整えキープするのか、常に留意しておかないと、という気持ちになりました。

あれもこれもと足したがるのは私の悪い癖で、うっかり物語で描きたい主軸を忘れがちなので
何を捨て、何を維持するのか、しっかり心に留めて描き進めたいと思います。


Date: 2019/08/03(土)


PCRのひらめき

漫画の中で説明するにはあまりに冗長だし必要もないと思って省略しているのですが、
PCR(ポリメラーゼ連鎖反応)とは、DNAの二重らせん構造の鎖が加熱によって一本鎖に切れる性質を利用した、DNAを増幅させる原理のことです。


高校レベルの生物でも教えられているので、生物を選択した方はご記憶かもしれません。

わかりやすい解説はこちらをご参照ください:
http://laurel-note.blogspot.com/2018/11/PCR-Polymerase.html

wiki:
http://ja.wikipedia.org/wiki/ポリメラーゼ連鎖反応(http://u0u0.net/VArb



PCR法の発明のきっかけは1983年、アメリカのキャリー・マリス博士によってもたらされました。

マリス博士がホンダ・シビックに乗ってガールフレンドとドライブ中に、ふとPCRの原理がひらめいたのだという。

このひらめきの伝説は生物学界隈の方にはとても有名なものらしく、福岡伸一先生の『生物と無生物のあいだ』にも詳しく書かれてあります。

更にマリス博士の自伝、『マリス博士の奇想天外な人生』にもPCR発明に関するあれこれの思い出が回想されています。

(この自伝は大変面白くて、一日で読み切ってしまいました。
 偏屈で近寄りがたい変人という科学者のステレオタイプを振り切るような、チャーミングで愉快なマリス博士に笑わせてもらえます)



マリス博士の自伝を読んでいると、PCRの原理のひらめきに至った経緯には、博士自身にプログラミングの心得があったからだと書かれています。

1983年といえば、アップル社がまだMacintoshも発売していないころ。(Macintoshの初売は1984年から)

研究者の間では早くからコンピュータが使われていたとはいえ、まだまだ一般的に"プログラミング"の感覚が広がっていない時代です。

そんな中、マリス博士は30億塩基対もある人間のDNAから、特定の文字列(テンプレートという)を検索し、単純なルーチンの繰り返しによってそれが増幅可能であるというプログラミング的な感覚をつかんでいた。

(ちなみに30億塩基対という人間のDNAがどれほどの長さかというと、1ページに1000文字印刷した一巻1000ページの本が、全3000巻になる計算です。とんでもない)


博士曰く、"科学的なプログラム"によってDNAを増幅させるという発想がPCR法であったわけです。

生化学の門外であるコンピュータ・プログラムという知識と経験から、あるときひらめきがもたらされたのだという。



このPCR法の発明によって、それまで大腸菌等の細菌に頼って地道に増殖させていたDNAを、いとも簡単に低コストで増幅させることに成功しました。

我々が日常でも使うようになった「DNA鑑定」なんていう言葉も、すべてPCRの発明の成果。
この発明によって、医学・生化学の分野にどれだけ躍進をもたらしたのか、全く言葉に尽くせぬ偉大な発明のように思います。

その功績の大きさが評価されてか、マリス博士は1993年に比較的早くノーベル化学賞も受賞しています。

その際、自伝によればスウェーデンのグスタフ国王に「自分の息子を王女の婿にどうですか」なんて売り込んだりしたそう(笑)
こういう フフッ となれるエピソードの連続なので『マリス博士の奇想天外な人生』、おススメです。


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さて私はこのPCRの発明にまつわるエピソードを読んだとき、「ひらめきってどこから来るんだろう?」という疑問が芽生えてずっとそれを考えていました。

ひらめきにも事の大小があるけれど、特に人間の文明の進歩に大躍進をもらたすような、超ド級のひらめき。

マリス博士にもらたされたひらめきだって、そんな超ド級の一品。
私はそれがどこから来るのか不思議でならず、ちょっとそのことを漫画の中でも描いておこうとずっと案を練っていました。


信心深きマルセルは、ひらめきは神が選ばれた人にもたらす恩寵だという。

対して主人公は、しかるべき経験と知識を持っている者に起こるもので、本人の努力の証だという。
(割と彼は根性論でものを語る)


ひらめきの根源はどちらだろう? その二元論でいいのか? とも思えたので、
その折衷ともいうべき立ち位置でアレックスにも語らせることにしました。

 −「ひらめきは努力の証だって信じたいけど、中には本当に神様からエコヒイキされてるなって思うやついるもんなぁ」


いやまったく、私もそう思います。

「そんなことよりゲームしようぜ」とドツボに深く立ち入らない。

野心も抱かず、ほどほどに遊び、友達や家族を大事にする。そんなアレックスの方がずっと幸福に生きられるでしょう。



努力は必ず報われる、正当な評価を得なければならないと考える主人公は、自ら真綿で首を絞めているようなもんだなぁ、と思うのです。

いやいやまったくしんどい。しんどい話題です。




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ところでマリス博士の自伝を読んでいて身につまされたトピックがひとつ。


世の中の大半の人は、割と楽観的に人生や社会をとらえて生きています。
子供時代に親が自分を守ってくれたように、大人になっても、誰か年配の、非常に賢い立派な人々が、国や社会のためを考え働き、守ってくれている。
そういう楽観論なイメージで平時を生きています。私もそうです。


ところがマリス博士はそれは幻想だという。

その考えに至ったきっかけは、世界最高権威の科学専門誌『ネイチャー』と自身の論文をめぐる経験からでした。


マリス博士の論文が『ネイチャー』に初めて掲載されたのは1968年、天文学に関する論文だったそうです。

分子生物学者のマリス博士が天文学の論文まで書いていたの!?とちょっと驚いたのですが、
学生時代は生化学の専攻をしつつ天文学の本も乱読していたらしい。

そんな学生時代に若気の至りで書いた思いつき理論の論文が『ネイチャー』に掲載されてしまった。


ところが人類に本当の恩恵をもたらしたPCRに関する論文は、『ネイチャー』も同格の『サイエンス』も相手にしなかった。

結局マイナーな『Methods in Enzymology 誌』に掲載されることになったのですが、
これで賢人が社会をなんとかしてくれているという楽観論が幻想だと気づいたというのです。


私が中学生の頃に読んだ『パラサイト・イヴ』に、『ネイチャー』に論文が掲載されることがどれだけすごいことなのかとうとうと書かれていたのを記憶しており、
まったくの門外漢である私でさえ、『ネイチャー』に載っている論文は揺るぎない堅実さを持った、この世の真理を解き明かす鍵だというイメージがあります。


ところがそうではなかったのだ。

先方は、学生時分に書いた思いつき理論の論文は掲載した割に、PCRの真価を見出すことはできなかった。

老成した賢人たちが世界を守っているという幻想はそこで崩れたといいます。




マリス博士は、結局私たちは、自分の頭で考えなければならないのだと言っています。

政治家も、科学者も、結局自分のことしか考えてない。
何かの慈善団体だって、自分たちのことしか考えていない。
本当の意味で、他人のため、社会のために尽力する聖人などいないのだという。



「何とかなるでしょ、誰かが何とかしてくれるよ」という楽観論で生きている人が多い中、
割と今までもそれで何とかなってきましたが、それだけでは二進も三進もいかないような時代が来るかもしれない。

政治の在り方や、自分はどのように生きれば、どう行動すれば良いのか、
ちょっと考えさせられる内容でした。

Date: 2019/07/31(水)


『ジーザス・クライスト=スーパースター』 とラファエロ前派に飛躍する話

もう一月ほど前のことになるのですが、劇団四季の『ジーザス・クライスト=スーパースター』を観ました。

アンドリュー・ロイドウェーバーの楽曲は有名ですが、恥ずかしながらどんな内容なのか知らず、
かといって観劇前に子細に知ってしまうのも惜しかったので、まったく情報を入れずに見に行きました。


イエスが磔刑に処されるまでの7日間を描いた物語とのことでしたが、
いわゆる"イエスの奇跡"の数々や、復活のことには触れておらず、
原理主義的な立ち位置からは距離を置いたものなのだとすぐに察しました。


ローマの圧政の時代に、飢餓、疫病、搾取に苦しむユダヤ人社会の中で
人々の救世主イエスへの期待があまりに大きくなりすぎたために、イエス自身も悩み、
その姿に失望を覚えたイスカリオテのユダが裏切りに走るという、独自の解釈が物語に織り込まれています。


目が見えない、歩けない、助けてくれ、と半ばおねだり信心のようにイエスにすがる人々に対し、
イエスは「自分で治せ!!」と発狂してしまうシーンもありました。

ええええ なんてアグレッシブな作劇なんだと驚きました。


聖書に忠実ではないなど様々な理由で、1971年のブロードウェイでの初公演からキリスト教原理主義者からの抗議もあったようですが、
私はこのミュージカルを、現代人のために、自分たちの等身大でイエスの物語の本質を見つけるために作られた作品なのだと感じました。

現代に続く高等批評的な解釈でのイエスの物語だと思います。



「高等批評」とは、この日記でも過去に何度か書いていますが、
"古典の時代背景を参考にしながら古典を理解しようとする目的で研究される批評" のことで、
歴史的、科学的な視点から、聖書の真相を研究する学問のことです。


原理主義者はことのほかこの高等批評を嫌っていますが、私自身は科学が急速に発達していく時代において、
犠牲の物語の本質を見失わないために必要だった解釈だと考えています。


"イエスの奇跡"の数々、水をワインに変えたり、湖の上を歩いたり、死者を復活させたり、自らも磔刑ののち復活する…
などという聖書のエピソードは、科学のない時代においてはイエスの偉大さを人々に知らしめるために有効な手段だったでしょうが、
科学の見識に目覚めたあとでは、そんな神秘性も効かなくなってくるのも当然のことです。


聖書の時代はどんなものだったのか、それに描かれている人々はどんな暮らしだったのか、
イエスの言葉や行いや、磔刑の犠牲の物語から見出せる教訓と本質は何なのだろうか?

高等批評の研究は、科学によって神秘性が失われてゆく時代に即して、普遍的な本質を忘れぬために重要なものだったと考えています。


高等批評を先導したシュトラウスやニーチェは、教会を批判する目的の方が先だったのかもしれませんが、
歴史的・科学的に時代を鑑みて聖書を理解しようとする姿勢は、現代において宗教に対する寛容さも育むものに発展したと思えるのです。

これはキリスト教だけでなく、他宗教にも展開できることで、
こういう歴史的・文化的背景があるからこんな信仰があるんだな、という理性的な他者への理解にもつながります。


高等批評の試みが始まらなければ、世界は排他的な原理主義者しか残らず、
また科学の力によって「そんなわけあるか」と信仰そのものも否定され、宗教というものが相当委縮して影をひそめる存在になっていたのかもしれません。

それはそれで人々の倫理観の屋台骨を失うディストピア世界です。


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ところで『ジーザス・クライスト=スーパースター』を作った作詞家のティム・ライス、作曲家のアンドリュー・ロイドウェーバー、いずれもイギリス人です。

イギリス人… 高等批評… とキーワードがぼんやり頭をめぐっているうちに、私はふと19世紀末に活躍したラファエロ前派たちのことを思い出しました。



ラファエロ前派たちといえば、美男美女・美しい自然背景・あまやかな物語の題材等で現在でも大人気でご存じの方も多いと思います。
http://art.pro.tok2.com/P/PreRaph/PreRaph.htm


1848年にロセッティ、ミレイ、ハントらが中心になって「ラファエロ前派兄弟団」を結成したとき、
彼らの画業の信条になったのは美術評論家のジョン・ラスキンの「自然をありのままに再現すべき」という言葉でした。


自然を忠実に描き出すことが絵画の善とせんばかりに緻密な自然描写をスタイルに取り入れた彼ら。

ラファエロ前派にはシェイクスピア文学や神話・伝説を題材にした作品が多いため、あまりそういう印象は抱かれませんが、実は彼らの活動動機はリアリズムから始まっています。


同年代のフランスの印象派たちが、個人の主観的な印象でリアルに自然を描こうとしたのに対し、
ラファエロ前派たちには「自然科学的な」リアリズムがありました。

(もっともこの信条を最後まで忘れなかったのはハントくらいで、他のメンバーは次第に独自のスタイルに流れていきます…)


特に忠実に自然を描くことを良しとしたのがウイリアム・ホルマン・ハントで、
宗教的な題材の絵を描くにしても聖書の舞台であるパレスチナに行かなければ!この目で見なければ!と律儀にパレスチナ旅行を数回敢行するほどでした。

当時でパレスチナに旅行することが並大抵の労力ではなかったことは容易に想像できます。

それまでのヨーロッパ絵画の慣例で宗教を描くにしても「まったく想像の」パレスチナの風景であったのに反し、
「ありのままの聖書の世界を描く」という彼の熱意は、遥かパレスチナを実際に見ることを欲しました。


そうしてパレスチナ旅行の成果をもとに描かれた作品も何点か残されています。

(例)
【 贖罪の山羊 】http://art.pro.tok2.com/H/Hunt/v007.htm

【 死の影 】 http://art.pro.tok2.com/H/Hunt/v022.htm



「ありのままの聖書の世界を描く」という熱意は初期のジョン・エヴァレット・ミレイにも見られ、
この作品によく顕れています。

【 大工仕事場のキリスト 】http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/3/34/Sir_John_Everett_Millais_002.jpg


イエスの父ヨセフは大工だったというのは割とよく知られたことですが、
そんな人間としてのイエスの暮らしぶりが緻密に描かれています。

ところがこれは、よくある"手をかざして後光が差しているような" 神々しい理想化されたイエスの偶像ではないのです。

聖家族の神秘性も失われた、本当にどこにでもいるような人間の姿として描かれた本作は当時、冒涜的だと大批判にさらされ、
文豪チャールズ・ディケンズも「醜い」と新聞で酷評したという逸話が残されています。



かようにしてラファエロ前派たちが「ありのままの聖書」を描きたがったのはなぜなのか?

もしかすると高等批評の影響があるのかも… とふと思い至りました。


実は当時の英国女流作家、ジョージ・エリオットはラファエロ前派のメンバーたちと親しく交流しており、
ジョージ・エリオットはドイツでの高等批評の先導だったダーフィト・シュトラウスの『イエス伝』を翻訳出版した人でもあります。
出版は1846年のことです。

ラファエロ前派たちが高等批評の影響を受けていた可能性は大きくあります。


今までラファエロ前派と高等批評を結びつける文献を読んだ記憶がないのですが、
時間ができたときに本腰入れて調べてみたいトピックだと思えるようになりました。


漫画が描き終わったら(何年先になるやら)研究したいネタができました。


Date: 2019/07/21(日)


Heilung 『Futha』解説

先日デンマークのペイガン・フォークバンド Heilung の新盤『Futha』が発売されました。
http://heilung.bandcamp.com/album/futha
(※こちらでフル視聴ができるので、是非聴いてみてください!)


2015年に出された1stアルバム『Ofnir』を初めて聴いたとき、「すごいバンドが現れた!」と大興奮したもので、新盤の発売も心待ちにしていました。

bandcampで特装版のアルバムを予約しており、ちょうど発売日の6月28日に届く。

開けてみると、通常のアルバムサイズよりも二回りくらい大きく、布張りのハードカバーに金の箔押し。とても豪華。

そしてハードカバーの方のブックレットは全てルーン文字で書かれているというぶっ飛び具合で、(ルーン文字が読めなければ曲のタイトルすら分からないのよ)各曲の解説は付属の "Explained" の解説書を参照せねばなりませんでした。


ところがこの解説書、言語は英語ですが難解すぎて何を書いているのかさっぱり話が頭に入ってこない。
使われている用語が何なのか分からない。

Bracteate? Völuspa? Lösesegen? 

こういう、なんとなく北欧っぽいナゾの単語が頻出して目を泳がせるのでした。

そう、Heilungは北欧のペイガン・フォークバンド。

ペイガンとは「異教徒」という意味で、これは何に対して異教なのかというと、もちろんキリスト教に対してです。

北欧で人気のペイガンバンドは地場の神話である北欧神話や歴史の事象を謳っていることが多く、それらの知識がないと、解説に登場する用語もてんで理解できないのでした。


私はペイガン系のバンドも大好きだけれど、恥ずかしいながら北欧神話等への造詣はほとんどなく、けれどHeilungの音楽が表現しているものを知りたい!学びたい!という気持ちが昂って、解説書を一字一句テキストに起こして文脈を把握し、用語を調べるという地道な作業を開始しました。

私がもっと英語が堪能でスラスラ読めたらこんな苦労はないのでしょうが、自分のできることから少しずつ知見の幅を広げるしかないのである。


音だけで意味も言葉も分からないまま音楽を楽しむのもいいですが、
(特にDL販売だとブックレットでの曲解説もないし、近頃は本当に音だけでワールド系音楽を聴くようになってきました)
解説書を読んでHeilungの丁寧な曲作りの姿勢を知って感動を覚えたので、
ここに簡単に曲解説をまとめておきます。


素人の翻訳・解釈だから未熟で間違っているところもあるかもしれませんが、是非皆さんもHeilungの音楽の世界を楽しんでください。

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◆タイトルについて

アルバムタイトル『Futha』はだいたい6世紀から9世紀頃のゲルマン鉄器時代に鋳造されたブラクテアート(bracteate)というメダルから取られたそうです。

ブラクテアートとは薄い金色の装飾メダルやコインのようなもので、刻まれた文様や偶像にはいくつかパターンがあり、スウェーデンの考古学者オスカー・モンテリウスによりAからMまで7種に分類されています。

ブラクテアートにはルーン文字の碑文が刻まれており、魔よけの護符を兼ねた装飾品だったことが想像されますが、興味深いことに碑文の大部分はルーン文字のアルファベット(フサルクと呼ばれる)の最初の3文字である "futh" で始まっているそうです。

Heilungは魔法の呪文の始まりが"futh"という3文字であることに注目したようです。

また、"futh"という3文字は、アルバムの一曲目「Galgaldr」の歌詞に使用した「Högstenaの護符」に書かれている碑文においては女性器の意味も内包していることも着想のヒントになったそうで、

「魔法の可能性と女性器」これが今回のアルバムのテーマとなり、聖なる女性が魔法の呪文を唱え、祝福を供するイメージを膨らませていったとのこと。


前作の『Ofnir』は非常に男性的なアルバムだったけれど(確かに)、今回の『Futha』は女性性にバランスをとって制作にあたったそうです。
女性ヴォーカル、マリア・フランツのパートも増えて、ますます神秘的に、優しさや幻想感を増したアルバムになっています。


参考文献:
http://en.wikipedia.org/wiki/Bracteate
http://www.runsten.info/runes/german/origin.html
http://blog.goo.ne.jp/huvy52g1s7/e/652a09a4324cccd63df243f3fa3a6728

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◆Track 1◆ Galgalder
http://youtu.be/m62iekbg9eo

曲は『巫女の予言』のスタンザ45から始まります。(スタンザとは定型詩を構成する詩のまとまりの一つの単位)

『巫女の予言』(Völuspá、ヴェルスパー)とは、北欧の神話や英雄伝説を語る古ノルド語の詩集『古エッダ』の筆頭に置かれる詩で、
巫女ヴォルヴァが世界の創造から終末(ラグナロク)の到来、そしてまた世界の再生することを、北欧神話の主神オーディンに語りかける形式になっているそうです。

参考wiki:『巫女の予言』
http://ja.wikipedia.org/wiki/巫女の予言(http://bit.ly/2JHdu0m



歌詞は『巫女の予言』のスタンザ 45、41、59 の順に構成されていて、
原文と英訳はこちらで読むことができます。

参考リンク:Völuspá stanza 41-45 
http://www.voluspa.org/voluspa46-50.htm

参考リンク:有志による訳
http://lyricstranslate.com/ja/heilung-galgaldr-lyrics.html


曲は禍々しい男声のがなり声にかぶさるように早いペースのチャントが乗ってきます。
このチャントは邪悪な霊に対して防御呪文を詠唱するイメージで、これはスウェーデンのHögestenaで出土した12世紀の護符から由来しているそうです。

参考リンク:Runiczny amulet z Högstena
http://blogvigdis.wordpress.com/2017/05/06/runiczny-amulet-z-hogstena/


スカンジナビア人は悪意のある病の霊魂が大気中に浮遊していることを信じていたそうで、護符は彷徨える病の霊魂から身を守る呪文を含んでいるとのこと。

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◆Track 2◆ Norupo
http://youtu.be/7PBo83bPyOE

この曲は『ノルウェーのルーン詩』を謳ったもので、詩は失われた13世紀の写本のものを17世紀に作られたコピーから取られたようです。

スカルド詩の韻律に従い、最初の行は常に節を指定して神秘的な意味をにおわせています。
2行目は韻を踏む情報を追加しており、何らかの形で最初の行にリンクされています。

ところでスカルドとは吟遊詩人のことで、特に9世紀から13世紀頃のスカンジナビア半島一帯で読まれた古ノルド語の韻文詩のことを「スカルド詩」と呼んでいるそうです。

「エッダ」が神話を扱ったものが多いのに対し、「スカルド詩」は人間の王や戦士の物語が謳われるのが多かったそう。

参考wiki:『スカルド詩』
http://ja.wikipedia.org/wiki/スカルド詩(http://bit.ly/2Y0vFY4



"Norupo "の詩は極めて不可解で、まるで謎なぞの歌のよう。

参考リンク:The Norwegian Rune Poem / 原文と英訳
http://throwbackthorsday.wordpress.com/2017/05/25/the-norwegian-rune-poem/


キリストは天の創造者として謳われ、北欧神話の神々の一人ロキは、たくらみに成功した裏切り者であると書かれています。

参考wiki:『ロキ』
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロキ(http://bit.ly/2JC2th2


ロキのwikipediaを読んでいると、キリスト教が北欧にも伝播してきた頃から悪魔的な性格をロキに与えられた感があるようで、
詩の成立した時代背景的にも、ちょうど北欧神話とキリスト教が融合する様子を実感できるようです。

キリスト教と土着宗教の融合は、このような詩だけでなく建造物などからも確認することが可能です。

ノルウェーのスターヴ教会では片目のオーディンの偶像が置かれていたりします。(オーディンは片目で描かれることが多いらしい)

参考wiki:『Hegge Stave Church』
http://en.wikipedia.org/wiki/Hegge_Stave_Church

神仏が混然一体となっている我々日本人も、こういう様子は「さもありなん」とあっさり受け入れられそうですね。


ところでこのような古く失われた詩の発音方法を探求することはHeilungにとって気分の高揚する研究対象のようで、今回はノルウェーのヴェストフォル県にあるBorreという村の方言が採用されました。
この発音は今でも生きた方言として使われているそうです。



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◆Track 3◆ Othan
http://youtu.be/zzteYM2Xv0M


この曲は『ハヴァマール(Hávamál)』という「古エッダ」に収録されている詩集から来ています。

『ハヴァマール』は邦訳として「オーディンの箴言」や「高き者の歌」という名もある。高き者(High One)とは、もちろん北欧神話の最高神オーディンのことです。

参考wiki:『ハヴァマール』
https://ja.wikipedia.org/wiki/ハヴァマール(http://bit.ly/2S5AmL0

曲のはじめのパートは、先述のブラクテアートの碑文に見られる呪文のごった煮という感じ。

意味は不明瞭で解読は進んでいないそうで、Heilungはこのパートに明確な意味を持たせるというよりも、戦いに向かう戦士たちに施された護符の装飾の魔法の呪文をブツブツと表現している、という感じでしょうか。


オーディンは戦の神として戦争を楽しみながらも詩作にもふけっている。

2つ目のパートの歌詞で使われている『ハヴァマール』のスタンザ156は、そんなオーディンの白い情婦が、主人が戦士たちに与えた魔法の呪文を詠唱しています。
戦士たちを祝福し、彼らを守るために盾の下で歌われる呪文です。

参考リンク: Hávamál stanza 156-160
http://www.voluspa.org/havamal156-160.htm


3つ目のパートでは、いよいよムードも暗くなり、活発な戦闘呪文を発するような段階に来た。

歌詞で使われている『ハヴァマール』のスタンザ150は、向かってくる矢を止める力(呪文)が呼び起こされたと書かれてあります。

参考リンク: Hávamál stanza 146-150
http://www.voluspa.org/havamal146-150.htm

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◆Track 4◆ Traust
http://youtu.be/HVw_1RZncec


この曲は『メルゼブルクの呪文(Merseburg Charm)』という古高ドイツ語で書かれた中世の魔法・呪文・まじない集からきています。

参考wiki:『メルゼブルクの呪文』
http://ja.wikipedia.org/wiki/メルゼブルクの呪文(http://bit.ly/2JtLG0I


北欧神話を題材にした絵を多く描いたドイツの画家エーミール・ドップラーは、この『メルゼブルクの呪文』のに見られる初めの詩は "Lösesegen" (解放の祝福) だと説明していたようです。

イディス(北欧神話の女神/ヴァルキリーとも)たちが捕らわれの戦士たちを解放する呪文が表現されています。


また曲の2つ目のパートは、『ガルドラボーク(Galdrabók)』という1600年頃のアイスランドの呪文書から引用されています。


参考wiki:『ガルドラボーク』
http://ja.wikipedia.org/wiki/ガルドラボーク(http://bit.ly/2JstJzx


歌詞の全容は有志による翻訳をご参照ください。
http://lyricstranslate.com/ja/heilung-traust-lyrics.html


マリア・フランツの美しい歌が素晴らしく、私の一番のお気に入りの曲でもありますが、一方で男性のコーラス部分は「畏れの舵(the Helm of Awe "Agishjalmr")」を表現しているのだとか。

参考wiki:『Helm of Awe』
http://en.wikipedia.org/wiki/Helm_of_Awe


「畏れの舵(the Helm of Awe "Agishjalmr")」のシンボルは『ガルドラボーク』が初出のようで、英雄ジークフリートが竜のファフニールを倒した際に宝物庫から手に入れたもので、「アイスランドの魔法の印象(シジル)」のひとつらしい。

参考wiki:『Icelandic magical staves』
http://en.wikipedia.org/wiki/Icelandic_magical_staves


わあ、厨二なワードがいっぱい! ややこしい! でもワクワク!

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◆Track 5◆ Vapnatak 
http://youtu.be/lkIwa17Vj14


Vapnatakとは古い北欧の言葉で、戦の時代に首長に忠誠を誓うために武器を掲げた儀式を表しています。
昔の北欧神話では、戦争の主は世界の創造者でもありました。

歌詞はHeilungによって書かれたオリジナルの詩劇のようで、戦場にいる臨場感を感じさせる迫力があります。

詩はフランク語のルーツまでさかのぼることができる古いドイツの方言で語られています。

この方言は現在絶滅の危機に瀕しており、その存在する地域はちょうど1世紀頃の、ローマ帝国と北方の蛮族たちの地域の境目にあるそうです。

その土地こそ、ケルスキ族を筆頭にゲルマン諸部族の連合軍とローマ軍が対峙してローマ軍を壊滅的に打ち負かした「トイトブルク森の戦い(AD9年)」の戦闘のあったあたりの場所とのこと。

参考wiki:『トイトブルク森の戦い』
http://ja.wikipedia.org/wiki/トイトブルク森の戦い(http://bit.ly/1HCYyWX


Heilungは、この戦いでケルスキ族に加担したカッティ族の戦士を夢想しています。カッティ族の戦士から見たローマ人との戦を表現しているとのこと。


ちなみにカッティ族は「トイトブルク森の戦い」の直後に反撃に出てきたローマ軍に返り討ちに遭い、大敗を喫してしまいます。
弱体化した民族は後にフランク族と融合し、歴史の波に消えてゆくのでした。

参考リンク:ゲルマン民族
http://world-note.com/germanic-people/


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◆Track 6◆ Svanrand 
http://youtu.be/VGzOj5JTMnE


この曲は女戦士のために捧げられました。

複数の情報源で知られる中世期のヴァルキリーの名前をすべて列挙しているそうですが、

韻と脚韻を合わせるために「ケニング(kenning)」という古ノルド語詩の迂言法も採用されました。

ケニングの迂言法とは、一般的な名詞を別の名称で呼ぶことです。(代称法ともいう)
例えば、「剣」という言葉を "傷つける鍬" "盾の氷" というような表現に変えること。

参考wiki:『ケニング』
http://ja.wikipedia.org/wiki/ケニング(http://bit.ly/2G2cDXh


Heilungはヴァルキリーの名前を、A prayer to our fair ladies(我々の美しき淑女のために祈る者)、Watan's brides(ワタンの花嫁)、the guardians of the Fallen(堕落した者たちの守護者)等、迂言法で表現しています。

"Svanrand" というタイトル自体が「白鳥の盾」を意味し、Heilungのケニング名になったそうです。


このようなただ名前を列挙するだけの詩は稀ですが、「スールル(thulur)」という古いアイスランドの詩法に同じ手法のものが残されています。
固有名詞を口承で伝えるために、覚えやすく韻を多用したのです。

参考wiki:『スールル』
http://ja.wikipedia.org/wiki/スールル(http://bit.ly/2NHZhp9


"Svanrand"の制作のために、古いスタイルを発展させたかたちの新しい韻律法が発明されました。
Heilungは自らのバンド名にちなんで「Heilunghattr」と呼んでいます。

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◆Track 7◆ Elivagar 
http://youtu.be/Xd6cWRvE2So


この曲は「ギンヌンガガプ(Ginnungagap)」は北欧神話の天地創造前に存在していた巨大な裂け目を表現しています。

参考wiki:『ギンヌンガガプ』
http://ja.wikipedia.org/wiki/ギンヌンガガプ(http://bit.ly/32g27VH


とにかく寒い、ということを表現するために実際の氷を割ったりぶつけたりして音のサンプリングをしていたそうです。

"Elivagar"と名のつく氷河はアイスランドに多数存在しているそうで、
先述の「スールル」という名前を列挙するだけの古い古ノルド語の詩作法に従って作られています。

ただ名前を列挙するという詩は、極めて単純なように見えますが、一方でただならぬ迫力もある。
ヒンドゥー教や仏教のお経にも似たものがあるよ、とHeilungは言っています。

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◆Track 8◆ Elddansurin
http://youtu.be/Xph2Phcj0LA


この曲は火をテーマにしたもので、古い北欧のパターンに従い、火と木に関連する言葉を暗唱しています。
こんな短い詩が、まるでお経のようなリズムで繰り返されれいるのです。


Aldrnari
Eldr bal bruni
Hyr hiti
Logi seyðir


火と聞くと、北欧神話ファンは火の神「ロキ(Loki)」をイメージするかもしれませんが、
ロキと火を関連付けたのはワーグナーであり、原典に根差していない独自の発想のためHeilungは支持していないそうです。

実際に火の化身であったのは「ロギ(Logi)」のほうで、
ロキとロギが対峙するお話は『ギュルヴィたぶらかし(Gylfaginning)』に登場します。

ロキとロギが骨付き肉の早食い競争を行った。
ロキは器用に骨や皮を除いて食べ、無事完食したが、ロギは肉はおろか骨や木皿、さらには桶までも食べつくし、ロキの負けとなった。
実はロギの正体は火であり、火ゆえにすべてを食べつくしたのである。

参考wiki:『ギュルヴィたぶらかし』
http://ja.wikipedia.org/wiki/ギュルヴィたぶらかし(http://bit.ly/2XITEMo

参考wiki:『ロギ』
http://ja.wikipedia.org/wiki/ロギ(http://bit.ly/2xHzRNH


詩の最後にある "seyðir" という言葉は古ノルド語で調理火を指すそうです。

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◆Track 8◆ Hamrer Hippyer
http://youtu.be/gGVH0qY-JGw


この曲はトラック4の"Traust"でも登場した『メルゼブルクの呪文(Merseburg Charm)』より歌詞が引用されています。

"Traust"の呪文が「解放の祝福」だとすると、"Hamrer Hippyer"は「馬の呪文」
(Wiki参照)http://ja.wikipedia.org/wiki/メルゼブルクの呪文(http://bit.ly/2JtLG0I


北欧神話の最高神オーディンが、脱臼してしまった馬の脚を治すための呪文を唱えているのです。

sôse benrenkî, sôse bluotrenkî, sôse lidirenkî;
ben zi bena, bluot zi bluoda,
lid zi gelidin, sôse gelîmida sîn

このような短い呪文が早いスピードで繰り返されています。

ちなみに曲のはじめの方で喉を震わすようなダミ声の歌唱法が登場しますが、これはグリーンランドやカナダの一部の地域に残っている歌唱法だそうです。


オーディンは最高神であり戦の神であり、偉大な治癒者でもあった。

ここにきてHeilungのバンド名がドイツ語の「癒し」であることに回帰してきます。

Heilungは自身の音楽や、ライブパフォーマンスの儀式を通じて観客に癒されてほしいと願っている。

Heilungの音楽によく見られる詠唱の繰り返しは呪文の反復であり、繰り返しが増すごとに効果が増幅されるイメージでいるようです。



”It is its own kind of medicine, that can lift you up from the dark world of hurt, so you may breathe again.”

「あなたが再び呼吸することができるために、あなたを傷つける暗い世界からあなたを引き上げることができるのは、あなた自身の薬なのです」


自らの中にある治ろうとする力を音楽で呼び覚ます、それがHealungの活動のポリシーであり音楽制作の礎になっているものなのでしょう。

一見ダークで禍々しい音楽に聴こえてギョッとするかもしれませんが、その中に込められた太古の魔法の呪文、伝説の神々・英雄たち、歴史の儚さ、そういった物事に夢想を広げてもらえると私もとても嬉しい。

目を閉じて静かに聴き入っていると、不思議と疲れも癒されているのが分かります。




"All is well."

「すべては順調です」

と解説書が締めくくられているあたり、なんともほっと安心した気分になります。

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ところでノルウェーのブラックメタルバンド、メイヘムとその信者たちが90年代に起こした暴動・殺人事件によって、ある年代以上の人々にはブラック、ペイガン系の音楽は極右の若者が聴くもの、と捉えられることが多いらしい…

こういう事件がありました。
参考リンク:ブラックメタルの名のもとに起きた衝撃的な10の事件(カラパイア)
http://karapaia.com/archives/52196932.html


北欧地場の神話や伝説や歴史を扱うペイガン系バンドも、民族思想を煽り、反キリスト思想、排他的な人種差別思想も持ち合わせている、と危機感を持って捉えている人もいるとかで、
私はそういう言葉を聞く度、「バンドメンバーにそういう意識の人がいたら嫌だなぁ…」と思いながらひっそり遠い日本で聴いているのです。


けれどもHeilungは今回の解説書ではっきりと中庸のスタンスを保っていることを明示してくれたのでホッとしました。

"Futha"は女性的なアルバムだと言ったけれど、それを特定の勢力の活動のために利用してほしくはないそうです。


"Heilung has no political agenda whatsoever.
Heilung also has no desire to contribute to gender mainstreaming or gender discussion with Futha."

「Heilungにはいかなる政治的議題もありません。
Heilungはまた、Futhaをジェンダー主流化、あるいはジェンダー協議に貢献させることを望んでいません」


とあらゆる方面に対して中庸であると主張しています。


"People are not equal, but of equal value, no matter where, as what, or as who they are born."

「人は平等ではありませんが、どこで、何として、あるいは誰として生まれたかに関わらず、等しい価値があります」

という締めの言葉には、私も大きく頷くところです。
Date: 2019/07/10(水)


ネットプリント初体験

Episode 6-3 の話はまだ途中ですが、思った以上に長くなってきたので一旦キリのいいところで筆をおいて休憩します。

最近尋常でなく疲れています。

体が疲れているとメンタルもやられて、漫画を描き続ける気力が痩せ細るのを感じます。

だんだん痩せ細っていって、あるときポッキリ折れてもう二度と描かなくなる。
そういう日がいつか来そうで、気力がなくなることを私は一番恐れているのかもしれません。


気がつけばもう一年の半分を経過して、今年になって描いた枚数は218ページ。
月40ページという目標から遅れ気味です。

以前は月40枚以上描けていた年もあったのですが、
その頃より画力も上がって描くスピードも上がったけど、描き込める要素も増えたので結局一枚の仕上げに長く時間がかかっているのかもしれません。


なんとか月40枚の目標を達成できるように毎日毎日必死に時間を作ってヒイヒイ描いていますが、
いかんせん、しんどいのだ。

腰の痛み、腕の痛みを感じながら騙しだまし、
こんなに必死に描いているけど、なんか良いことあったか? という疑心暗鬼に捕らわれるともう、メンタルも弱り、
体が重くなって何も動けなくなるような感覚になるけれど、それでもまあ歯を食いしばって描いています。


なんでこんなに急ぐのだろう?


私が健康で、こんな大変でかつ何のお金も生まない趣味の活動に割ける時間がいつまでもあるわけではないかもしれないという焦りが不安を生んでいることは確かです。


それは私が30歳になってすぐ父が癌で亡くなったからかもしれません。

私の30代は親の死と共に始まり、何も成し遂げられぬまま人生が終わってしまうことへの恐怖が、それ以降もずっと私を追い立てています。

30代の半ばになって、その恐れは緩和するどころかますます追い立てる速度を上げていて、
自分ももう若くはないという自戒とともに、
人生で一番若い日は今日なのだという意識で必死で描いているのです。


漫画家(特に少年誌)のデビューに暗黙の年齢制限があるのもよくわかります。

すげー体力勝負だから(笑)


こんな大長編の漫画、あと数年内に完結させないと、本当に私も体力的に衰えて描けなくなってしまう。


そんなところで、ちょっと体を休めて、また原稿再開します。


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ところで初めてセブンイレブンのネットプリントに登録しました。

単に私がやりたかっただけの自己満足なんですが、良かったらどうぞ〜

1:予約番号 5GL8BKX4 / A4カラー 60円
2:予約番号 3CXK52YC / L版写真プリント 30円
3:予約番号 4NPLHKQX / L版写真プリント 30円
7月15日まで


長髪と短髪それぞれの主人公を描いたのだけれど、きっかけは「読者さんは長髪と短髪、どっちが好きなの??」という疑問でした。

今更かよ。描き始めて15年目の疑問(笑)


Twitter上で投票を受け付けたのですが、僅差で長髪の方が人気でした。

とはいえほぼ拮抗した結果だったので、作者としてはとても嬉しい結果をいただきました。
どちらかに偏っていたら、それはそれでマズいんですよね(笑)


そんな記念のイラストです。

Date: 2019/07/08(月)


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